『①外圧で開国を迫られ、安政の大獄や将軍継嗣問題、攘夷運動等が高まる中で、幕府が威信低下し、そして、②最後の将軍”徳川慶喜”が大坂から江戸へ逃避していく その間に起こった出来事に纏わる「お城」を採り上げる』シリーズを再開しています。

 

先日は「尊王攘夷」を指向する浪士達によって襲撃を受けた、3つの「代官所」と「陣屋」についてお話をしましたが、その中で「天誅組の変」で「五條代官所」とともに彼らに襲われかけた「高取城」(奈良県高市郡高取町)を採り上げたいと思います。

 

「奈良産業大学」によるCG写真(「大手門」跡前に掲出)

 

「孝明天皇」の尊王攘夷成功祈願をする為に、「三条実美」を中心に「大和行幸」計画が進められていましたが、尊王攘夷派の「天誅組」は、それを前にして、天領支配となっている大和国を朝廷に帰させるべく幕府の出先である「五條代官所」を襲撃し、さらにその隣接している譜代諸藩に対しても恭順するように迫りました。

 

当初「高取藩」は、兵糧や鉄砲の提供を彼らに約束しましたが、「京都守護職 松平容保」から「天誅組」を討伐するように命令が下されたことから一転しました。

 

このことから、「天誅組」は「高取城」攻撃に転じましたが、お城では急遽領民も動員して対抗し、山城である「高取城」の高地からの大砲・鉄砲攻撃を加えるとともに、山城特有の複雑な要所への兵士配置等も功を奏して、「天誅組」は混乱に陥いて退去しました。

 

幕末は以上の様な「高取城」でしたが、成り立ちから幕末迄の経緯を簡単に下記に掲載しておきます。

 

「高取城」は、地方豪族の「越智家」が築城したのが最初で、戦国時代までは「越智家」の支配下にありましたが、その後「筒井家」のモノとなり、更に「織田信長」軍門下で「越智家」は滅ぼされ、「高取城」は廃城となります。

 

豊臣政権では、「豊臣秀吉」の弟「秀長」が「大和郡山城」に入城し、「高取城」はその支城として復興され、「秀長」の重臣「脇坂安治」等が入城してからは近世城郭として大改修が行われます。

 

本丸跡の西面石垣 

 

関ケ原の戦いでは、「石田三成」の西軍の攻撃を受けましたが持ちこたえ、戦後は「本多家」のお城となりますが、嗣子なく当城は幕府直轄地となり城番管理となります。

 

旗本だった「植村家政」が1640年に大名に取り立てられて2万5千石で「高取城」に入ります。この「植村家」は、古くからの「松平(徳川)家譜代」の家臣で、徳川政権の基盤を共に築いた家柄でした。そんなことから、藩主代々の名前には、「家康」からの「家」の一字を与えられて、初代の「家政」以来「家」を名乗ることが許されています。

 

そして「植村家」が入封した後は、譜代大名としては珍しく城主が替わることがなく安定して 14代が幕末・維新まで続きます。

 

「高取城」は、「関ケ原の戦い」でも「天誅組の変」でも、落城しなかった堅固な山城であったことが証明されています。

 

搦手側の七つ井戸のある所から本丸跡方向を見上げる 

 

それでは「高取城」を見ていきますが、日本三大近世山城と言われ、583mの高取山山上に「本丸」が置かれました。

 

「本丸」への登城ルートは主には2通り、現在の近鉄「壷阪山駅」から麓の城下町を抜けて「黒門」側からの大手道を登るルートと、「壷阪山駅」から「壷阪寺前」まで「奈良交通」バスを使い、そこから「壷阪口門」跡を通るルートです。

 

特に、江戸時代初期は城主・家臣ともども山頂に居城していましたので、多くの城郭建造物が建てられましたが、その後藩主居館を、麓の「下屋敷」に移しそこで政務を執っていましたが、城郭建造物は廃棄されないで幕末まで健在でした。

 

縄張図

主郭の縄張図(高取町のパンフより)

 

「壷阪口門」跡を通るルートでは、石垣が段々になっていている「八幡郭」を見ながら上り切った所に、頂上部の入口である「壷阪口門」跡の石垣を見上げることができます。

 

「八幡郭」の石垣

 

城外からの入口は「壷阪口門」「黒門」「吉野口門」「岡口門」の4箇所あってその内の一つの門跡となっています。内側には、「壷阪口郭」が拡がり「侍屋敷」が置かれた郭でした。そして、木でできた階段を上り切った所に、苔生した門の礎石が残る「壺阪口中門」跡に出ます。

 

「壷阪口門」跡

苔生す「壺阪口中門」跡とその礎石

 

更にその石垣を左手に折れると、左右に積まれた石垣の壁が迫ってくるようです。その左手が「三ノ丸城代屋敷」跡で面積は大きく、家老屋敷が並んでいました。

 

「三ノ丸城代屋敷」跡

 

石垣の壁を右側に曲がった所から「本丸」跡方向を見ると立派な「大手門」跡がのぞめます。石垣表面には苔の緑色が際立って凄く幻想的な眺めとなっています。

 

「三ノ丸城代屋敷」跡前から「大手門」跡をのぞむ

 

「城代屋敷」から見上げた「本丸」の古写真と、それを基にした「奈良産業大学」が制作したCG写真が当時の姿を再現してくれています。いかに多くの建造物が重なり合って建ち並んでいたかがよくわかります。

 

「城代屋敷」から見上げた「本丸」の古写真

「奈良産業大学」による上記と同じ場所からのCG絵(少し拡大)

 

ここからは、主郭部分に入って行きます。「大手門」は、当時「御城門」とも言われ、城内最大級の枡形を形成していたこともあり、門脇の石垣も非常に堅固に組まれています。

 

「大手門」跡(右へ折れ曲る枡形)

 

「大手門」跡を通ると、石垣に囲われた曲輪が存在し、「ニノ丸」跡に入る為には両脇から迫る石垣と、正面に横たわる「十三間多門」跡の右折れ枡形を通り抜けなければなりません。

 

正面の「十三間多門」跡で右折れする

「十三間多門」跡

 

「十三間多門」跡の長めの櫓台が切れた所が、広々と拡がる「ニノ丸」跡で元々は「御殿」もあったようです。左手には、「高取城」紹介の写真では、必ず目にする長い櫓台がどっしりと構えています。繋がっていますが裏から見ると良く解ります。向かって左側が「太鼓櫓台」、右側が「新櫓台」です。

 

「ニノ丸」跡

左側が「太鼓櫓台」、右側が「新櫓台」

 

「太鼓櫓」「新櫓」の裏側に廻るべく今度は「十五間多門」跡のこれまた長い櫓台の間を抜けて「本丸下の段?」に入ります。右手に二つの櫓が繋がる櫓台の裏側となり、左手には「本丸」跡内に立つ立派な「天守台」が見えます。

 

「十五間多門櫓」台

「太鼓櫓」(右側)「新櫓」(左側)跡の裏側

「天守台」

 

「太鼓櫓」「新櫓」へ階段で上にあがりますと両櫓跡ともに礎石が残ります。そして「二ノ丸」跡が見渡せ、「十三間多門」の枡形も上から良く解ります。また、「本丸下の段」跡側の真下には「搦手門」跡があり、そこから下側へ山城ならではの水の確保を担う「七つ井戸」が下に向かって並びます。

 

「太鼓櫓」台

「新櫓」台

「搦手門」跡(ここから下に「七つ井戸」がある)

 

急坂を降りてすぐの所に「井戸」が二つ見られ、更に下をのぞむと湿気た場所が続きます。そこから振り返って見上げる光景は、何段にも石垣が重なって見えて見事です。

 

「七つ井戸」の一つ

「七つ井戸」付近から見上げる「搦手門」跡方向の石垣

「七つ井戸」付近から見上げる「新櫓」台方向の石垣

 

その辺には、瓦が至る所に散乱しますし、この後にも各所で瓦破片の散乱場所に出会いますが、瓦葺の城郭建造物が林立していたことを物語ります。

 

散乱する瓦破片

 

「本丸」跡の「天守台」脇迄戻り、西面の高石垣を見ながら北面に沿って進むと、「本丸虎口」があります。こちらは、入ってすぐの所に門構えがあり左→右→右と進んでいくと再び門が構え、左手に折れた正面に石垣の壁が設けられ、左右に通路が分かれるという複雑な構造となっています。

 

「本丸」跡の西面石垣

「本丸虎口」跡

 

左へ進むと「本丸」跡の広い広場へ、右へ進むと「天守台」に至ります。「天守台」は、南側には「穴蔵」の出入口があり左側に石棺が転用石として使用されるのが見られます。

 

「本丸虎口」跡から「本丸」跡全景

「本丸虎口」跡(本丸跡から「天守台」方向」)

「天守台」(南東隅)

「天守台」の南の「穴蔵」(左の直方体の石は石棺)

 

「天守台」の上には、白亜の三重三階の「天守」が上がっていたそうです。

そして、「本丸」跡周囲は場所によっては二重の多聞櫓で囲われ、「天守」の南側には三重の「小天守」、「本丸」跡の南東隅には三重の「煙硝櫓」が、東北隅には二重の「鉛櫓」と本丸虎口脇に睨みを利かす二重の「馬具櫓」が建ち並ぶ、「連立式」の大城郭であったようです。

 

「本丸」跡からの遠景

「小天守台」

「本丸」跡南側の「多聞櫓」台

「焔硝櫓」台

「鉛櫓」台

「馬具櫓」台

 

「本丸」跡の石垣には特徴が見られ、東北隅は大きく内側に折れて窪み、「本丸下の段」から見ると、非常に複雑な積み方が見られます。窪んでいるのは、東北隅という鬼門を意識した積み方「角切り」になっているのでしょうか。「松江城」(島根県松江市)の東北隅とよく似た形状になっていました。

 

鬼門を意識した?内側に折れて窪んでいる「東北隅」

内側に折れて窪んでいる「東北隅」と継ぎ足して補修した跡

 

また、複雑な積み方に見えたのは、東面の隅の石垣の補修の為に下部を繋ぎ足していると思われます。「高取城」ではここ以外にも継ぎ足しの補修工事の跡が多く見られ、城主(藩主)「植村家」は、幕府からは特に許可を得ることなく絶えず修復や補修の普請を行うことができる「常普請」が認められていたからだそうです。

 

幕府内では、こんな優遇措置もあったんですね~  今でもこのような優遇措置って何らかの形で残っていて見られたり聞いたりしますが、当時は親戚縁者、お友達繋がりなんかのあからさまな優遇は当たり前だったんでしょうね。

 

「本丸」跡南面の継ぎ足し石垣 

 

また、「本丸」跡南側石垣の長い法面(のりめん)は、横から見ると大きく内側湾曲する「平ノスキ」という崩落を防ぐ手法を採用していて、それがまた石垣の美しさを醸し出しています。

 

「本丸」跡の南面石垣(内側に湾曲する「平ノスキ」手法の高石垣(「小天守台」から「焔硝櫓」方向)

「本丸」跡の南面石垣(内側に湾曲する「平ノスキ」手法の高石垣(「小天守台」方向)

 

 「本丸」跡は、「本丸下の段」跡が取巻いています。東北隅の少し広い敷地端には「十万櫓」と「門」跡があり「井戸郭」にも繋がっています。更に、「本丸下の段」跡の南東隅には「辰巳櫓」跡が、南西隅は「未申櫓」台が残ります。

 

本丸下の段「十万櫓」跡

本丸下の段「辰巳櫓」跡

本丸下の段「未申櫓」跡

 

次回続き(後編)は、「大手門」跡に戻り、「吉野方面」「高取城下方面」及び「明日香方面」に向かう道の分岐点となる「千早門」跡からスタートします。

 

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