『①外圧で開国を迫られ、安政の大獄や将軍継嗣問題、攘夷運動等が高まる中で、幕府が威信低下し、そして、②最後の将軍”徳川慶喜”が大坂から江戸へ逃避していく その間に起こった出来事に纏わる「お城」を採り上げる』シリーズを再開しています。

 

「薩摩藩」と「長州藩」が土佐の「坂本龍馬」の仲介で、二藩が協力して討幕をめざす「薩長同盟」を結び、京都を中心に過激な倒幕行動を強め、幕府方の守護職「松平容保」は、配下の「新選組」に「京」市中の取り締まりを一層強化するよう指示をしました。

 

前回ブログでも触れましたように、「薩長同盟」よりも前から、「京」においては「尊王攘夷」を目指した過激派志士が、集まり不穏な動きを行うとともに、倒幕も念頭に置いた動きが各所で勃発します。

 

前回記載のブログとは、時代が前後しますが1862年の夏、「尊王攘夷」の決行成功祈願の為に「天皇」が「大和行幸」を行うという計画を立てたのが長州藩に近い「三条実美」等の急進派公家達でした。

 

そして尊王浪士達が、「大和行幸」前に大和国を幕府の天領支配から朝廷に対して土地・人民ともに奪い戻そうとして「五條代官所」(奈良県五條市)を襲撃する「天誅組の変」を1863年の夏に起こします。

 

「五條」は、元々は大名支配の地でしたが天領となり、1795年に吉野郡や宇陀郡などの天領5~6万石を管轄する為に、「五條代官所」を現在の「五條市役所」の場所に置きました。しかし前述したように、1863年の「天誅組の変」で焼き払われましたので、翌年幕府は、新たに現在の裁判所の敷地に再築しました。

 

その裁判所の敷地に建っていた「長屋門」と広場を市が譲り受けて、民俗資料館と史跡公園として整備されています。

 

襲撃後再建された「五條代官所」長屋門(現 民俗資料館)

襲撃後再建された「五條代官所」長屋門(現 民俗資料館)

襲撃後再建された「五條代官所」長屋門(現 民俗資料館と史跡公園)

襲撃後再建された「五條代官所」長屋門(現 民俗資料館)の妻面

 

また城下は、江戸時代中期の頃から発展を遂げた「新町通り」沿いに酒蔵や屋敷などが建ち並び、遠い昔に引き込まれるような素敵な街並みになっています。

 

五條「新町通り」の古い街並み

五條「新町通り」の古い街並み

五條「新町通り」入口付近の大きな屋敷

 

さて、「五條代官」等が殺害され、代官所も焼き払われたことから、「松平容保」は周辺の「高取藩」等に対して「天誅組」追討を命じます。

 

「高取藩」は「天誅組」からの兵糧差出しを拒否すると「天誅組」は高取城」(奈良県高市郡高取町)の攻撃に転じます。しかし、山上高地からの大砲射撃や山城特有の複雑な要所への兵士配置が功を奏して、「天誅組」は混乱に陥いて退去しました。

「高取城」は別途お届けします。

 

しかしながら結果的に「行幸」は、「三条実美」の政敵であり且つ当時「会津藩」や「薩摩藩」とよしみのあった「中川宮」が「孝明天皇」に中止を働きかけたことから実現ができず、「三条実美」等の公家七卿落ちと長州藩の御門警備の解任という「八月十八日の政変」(1863年)に結びつきました。

 

そして少し時代は下がりますが、1866年には「第一次長州征伐」による「長州処分」が下され「第二次長州征伐」が進められる中、「長州藩」配下の「騎兵隊」から脱走したメンバー約100名が、幕府直轄地である「倉敷代官所」や、「禁門の変」で会津藩とともに「長州藩」を排斥した京都見廻り役「蒔田家」の「浅尾陣屋」を襲撃するという「倉敷浅尾騒動」を起こしています。

 

「倉敷」は江戸時代初期に幕府直轄地でしたが、一時「備中松山藩」の領地となり、再び1642年に天領となりますが、その後も度々諸藩の大名領地となります。

 

そして1721年以降やっと幕府領として定着したことから、1746年に今までの仮陣屋から「倉敷代官所」(岡山県倉敷市)が置かれました。当代官所の管轄は備中・美作・備後の一部と讃岐沖の塩飽群島で約6万石位でした。

 

代官所の絵図によると、ほぼ正方形の形で周囲はそんなには広くない塀と用水路のような堀で囲われ、南面の正門脇に番所を置き、敷地内の東側に代官邸、西側には御役所、元締、倉そして学校「明倫館」がありました。また、低い城山には「稲荷社」が祀られていました。

 

「倉敷アイビースクエア」内に掲出の配置関係図

 

明治時代には、代官所跡に建てられた「倉敷紡績(くらぼう)」の工場敷地となり城山も平地に整地されます。

 

工場廃止後、1973年に「倉敷アイビースクエア」として複合観光施設が建設されました。工場時代の赤レンガの建造物と工場内の温度調節の為に外壁を覆っていた蔦は、当施設の代名詞のようにもなりました。現在も、引続き倉敷の街並みの一画を形成していています。

 

「倉敷代官所」跡に建つ「倉敷アイビースクエア」

 

前述したように、幕末に「倉敷浅尾騒動」で当代官所が襲撃され焼き払われましたので遺構は殆ど残らない中で、かろうじて「倉敷アイビースクエア」西門近くに、「井戸」「堀」「その堀に架かる橋」を見ることができ、「石碑」が立ちます。

 

「代官所跡」石碑(「倉敷アイビースクエア」内)

「代官所」跡内の「井戸」の遺構(「倉敷アイビースクエア」内)

「代官所」跡の堀と石橋(「倉敷アイビースクエア」内)

 

「倉敷」の街並みは、江戸時代初期に備中国奉行として入った「小堀正次」により、重要物資の拠点港として整備され、特に1615年の「大坂夏の陣」には兵糧米の積出港として使われました。

 

その後も、大坂等上方への物資輸送の拠点地として賑わい栄えたことで富を成す商人も増え、幕府は天領として「倉敷代官所」を置くことになりました。

 

倉敷美観地区(倉敷川に架かる中橋、明治10年築の太鼓橋) 

米倉を改装、白壁に黒の貼り瓦

倉敷美観地区

倉敷本町の古い家並み

倉敷美観地区 (倉敷川に架かる今橋から)

倉敷美観地区 (今橋)

 

「倉敷浅尾騒動」で襲われたもう一箇所が「浅尾陣屋」(岡山県総社市)です。

 

「浅尾陣屋」は、「蒔田家」の陣屋です。当初は外様大名で関ケ原の戦いでは西軍で参戦しましたが、戦後「浅井幸長」の執り成しで取り潰しは免れ、1万石の小大名で浅尾の地に陣屋を築きました。

 

しかしその後3千石を分知したことで、長年旗本で甘んじていましたが、1863年に京都市中の見廻役で功績があったとのことで加増され  1万石に復帰して譜代大名となりました。

 

「浅尾陣屋」は小高い丘陵の上に築かれ、山頂部に藩主の「御殿」を建て、その周囲を城壁で取り囲んでいました。その下の段には「家中屋敷」、更にその下の段には「御台場」「調練場」が置かれていたようです。

 

小高い丘陵地に築かれた「浅尾陣屋」跡

「浅尾陣屋跡」碑

 

現在は、山頂部分に「浅尾陣屋」と「稲荷神社」が立ちます。また復元された土塀がありますが、裏手に廻ると、前述の騒動で焼き払われたままの状態でしょうか、狭間が付く生々しく朽ちた土塀を見ることができます。このような状態で保存されているのは珍しいと思いますが、非常に現実味を感じることができました。

 

「復元土塀」

朽ちたままの当時の土塀(かすかに狭間が見える)

朽ちたままの当時の土塀

侍屋敷が置かれた敷地(東側)

 

また、林の中を覗くと、「硝煙櫓」の土壁の一部もそのまま残されているが見られました。

 

「硝煙櫓」の土壁の一部

 

最下段の田畑の脇には、「馬場用水」跡も残されているのと、藩校「集義館」跡には会館が建てられていて集会場として使用されているようです。

 

藩校「集義館」跡に建つ会館

 

以上、二か所の幕府直轄代官所、譜代大名陣屋、譜代大名城をお届けしましたが、この頃になると、「攘夷」に対して何の手立ても打てない「幕府」に対して、過激な尊王浪士達があちらこちらで「幕府施設」や「幕府方」に対する襲撃が行われていました。

 

「高取城」については、別途取り上げてお届けしたいと思います。

 

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