「日帰りお城巡り」の「お城紀行」、前回のブログでは、続・日本百名城の「佐柿・国吉城」の麓にある「若狭国吉歴史資料館」が建つ「佐柿町奉行所」跡をお届けしました。

 

佐柿町奉行所  https://ameblo.jp/highhillhide/entry-12638416376.html

 

今日はいよいよ、「国吉城」本丸がある標高197mの頂上を目指して登城します。

 

「国吉城」の俯瞰絵図(「若狭国吉歴史資料館」内に掲出)

 

まず、「国吉城」の成り立ちと城主について少し触れておきます。

 

若狭国守護大名だった「武田家」の重臣「粟屋勝久」が古城跡を利用して1556年に築城したのが始まりです。

 

築城後は、隣国の「朝倉家」が毎年のように攻め込んできましたが、その都度、朝倉勢を撃退して「国吉城」と「勝久」の名前を有名にしました。そして、1570年の「織田信長」による「朝倉義景攻め」の時には、織田軍と共に戦い当城も活用されて、「朝倉家」の滅亡に寄与します。

 

「信長」死後、1582年の「羽柴秀吉」と「柴田勝家」との対立では、城の改築を行うとともに「秀吉」側に加わり勝者となって、「勝久」は「秀吉」に大坂で召し抱えられ、それと入れ替わりで「秀吉」臣下の「木村定光」が入城します。その後もこの地を領有する「京極家」等の大名も当地を重要拠点として重臣を入城させます。

 

しかし、江戸幕藩体制になり「酒井忠勝」が入封すると、廃城を行い「佐柿町奉行所」を置くようになりました。

 

「国吉城と佐柿城下」の模型(「若狭国吉歴史資料館」内に掲出)

 

それではお城に向かいます。

 

登城路の左手に大きな段々の敷地が拡がるのが、「城主居館」跡です。こちらは、普段は城主や臣下がそこに居住していて、いざという時には山上の山城へ籠るという「根小屋」と「詰城」の形を採っていました。

 

城主居館跡の地形測量図(縄張り、「若狭国吉歴史資料館」内に掲出)

最下段から見上げる「城主居館」跡

 

発掘調査では、かなりの沢山な礎石に相当する平石や敷石が発見されたそうですが、現在は殆どが埋め戻されていて見えるのは一部だけとなっています。しかし、最下段から見上げる段々状の光景は見事です。

 

上段の方に見える「敷石」等の遺跡

「城主居館」正面虎口跡付近

 

そして一番広い最下段の南面には、三から四段の石垣がずらりと並び、角には大きな角石が積まれた算木積みになっていることから、「京極家」期に導入されたようです。

 

「城主居館」最下段南面石垣 

城主居館最下段南面石垣 

「城主居館」最下段南面張出し石垣

 

「城主居館」の更に西側にも広く拡がる敷地が有りますが、そこは「青蓮寺」が建っていた「青蓮寺谷」と言われる場所です。

 

「城主居館」跡を後にして登っていくと、熊が民家に下りてこないようにする鍵が付いた「熊よけ」ガードがありそこから中に入りますので、いつ「熊さん」と遭遇するかも判らないということで、少し不安ながら前進しました。

 

非常に急な「九十九折れ」の山道を息を切らしてどんどん上がって行きます。初冬というのに汗がしたたり落ちてきます。

 

「九十九折れ」

「九十九折れ」

 

15分くらい上ったでしょうか、左手の少し下った所に現われるのが「二の丸」跡です。地図には「喰違虎口」と「高土塁」があるとの情報ですので、迷わず降りて確認しました。地図上では、ポツリと単独で存在する曲輪ですが、この「喰違虎口」と北側に向けて続く非常に高さのある「高土塁」の意味は何だったのでしょうか。

 

「二の丸」から「本丸」にかけての曲輪絵図(「若狭国吉歴史資料館」内に掲出)

「二の丸」跡(登城路から見下ろす)

「二の丸」跡内の「喰違い土塁」

「二の丸」跡内の「高土塁」

 

そこから更に数分上ると、「本丸」の下の西から南にかけて囲う「帯曲輪段」となります。進行方向に向かって右側の斜面下側沿いに石垣がびっちりとへばりついていました。

 

「本丸下帯曲輪段」上段石垣(進行方向の逆から撮影)

「本丸北西曲輪」下段から「連郭曲輪群Ⅱ郭」を見上げる

 

「帯曲輪段」突き当りには「北堀切」があり、右手(南側)の「本丸」側から左手(北側)の「連郭曲輪群」に向かう尾根を分断している所です。珍しいのは、「堀切」の分断している北面と南面の両方ともに石垣が積まれています。また、その間には、供養塔等の転用石が並べられていました。

 

「北堀切」

「北堀切」の北面

「北堀切」の南面

「北堀切」の間に置かれた「転用石」

 

「連郭曲輪群」に行く前に、右手の「本丸」跡へ行くべく坂道を上りきった所に拡がるのが「本丸北西虎口」です。両側には、小さな石の中に所々大きな平石が見られますが、それは倒れた「鏡石」のようです。

 

本丸下側「北堀切」跡から見上げる「本丸」跡

「本丸北西虎口」跡 

「本丸北西虎口」跡 (虎口右側の土塁と石垣) 

「本丸北西虎口」前の門礎石等(本丸側から)

 

「本丸」跡はそこそこの広さはあり、右斜め奥(南方向)に盛り上がった所が「南隅櫓台」です。その真下は「南堀切」になっているようです。

 

「本丸」跡(右手の盛り上がりが「南隅櫓台」)

「本丸」跡碑 (大正時代に立つ)

「南隅櫓台」跡

 

「本丸」にはもう一つ「本丸東虎口」があり、その前にも石垣が見られます。

 

「本丸東虎口」跡

「本丸東虎口」跡下の曲輪

 

197mの最高峰にある「本丸」跡から北東方向には「美浜湾」が見えます。この眺望を見ながら、コンビニで購入してきたオニギリを食べようと思っていましたが、ちょっと落ち着く場所もなく断念しました。オニギリは結局、下山して車中で食べることになりますが・・・

 

「本丸」跡を後にして、先ほどの「北堀切」から北側に延びる「連郭曲輪群」へ足を向けていきました。手前の長い曲輪が「Ⅱ郭」で、そこから見る「美浜湾」の方が、海岸の曲線美がより際立って見えました。

 

「連郭曲輪群Ⅱ郭」跡

「連郭曲輪群Ⅱ郭」で見られた石垣

「連郭曲輪群Ⅱ郭」跡から望む「美浜湾」

 

「連郭曲輪群Ⅱ郭」の次は「Ⅲ郭」が繋がりますが、「Ⅱ郭」最北端から見下ろす「Ⅲ郭」はかなり崖下でそこへ降りる手段はロープを伝って行かなければならず、しかしながら「Ⅲ郭」から見上げる「Ⅱ郭」の光景を見たく降りることに決めました。

 

「連郭曲輪群Ⅱ郭」最北端から見下ろす「Ⅲ郭」

 

「Ⅲ郭」も結構な広さですが、振り返って見る「Ⅱ郭」の小山上になった崖は迫力がありました。

 

「Ⅲ郭」から見上げた「Ⅱ郭」

 

「Ⅲ郭」北端まで行きましたが、あとに続く「Ⅳ郭」「Ⅴ郭」「Ⅵ郭」へのチャレンジは時間的にも断念せざるを得ませんでした。

 

「連郭曲輪群Ⅲ郭の北方向」(この先にⅣ・Ⅴ・Ⅵ郭が並ぶ) 

 

「北堀切」まで戻り、そこから一気に下山をして駐車場まで帰ってきました。

 

前述のように、車中でオニギリを頬ぼりながら、次に向かう「玄蕃尾城」へのルート検索をナビで行いました。出発時間は12時10分でした。

 

次回は、続・日本100名城「玄蕃尾城」をお届けしたいと思います。

 

 

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