外圧で開国を迫られ、安政の大獄や将軍継嗣問題、攘夷運動等が高まる中で、幕府が威信低下していく幕末から、最後の将軍”徳川慶喜”が大坂から江戸へ逃避する迄の期間中に起こった出来事に纏わるお城を紹介していますが、一時中断しました。


本日から再開しますが、現在は、長州藩の「萩城」までをご紹介してきました。その「長州藩」には多くの支藩や孫藩を設けて、それぞれにお城を持たせていました。


「萩城」の最後の方で記載しましたが、「毛利家」は「関ケ原の戦い」の後は、辺鄙な土地に築城させられる等、非常に幕府に対する恨みを積年重ねていて、新年挨拶には重臣が「倒幕の準備が整いました」と言い、それに対して藩主は「時期尚早である」と応えたというエピソードが伝わるようです。


このようなことから、「長門国」には、「萩城」以外にも「長府陣屋」(山口県下関市長府)を持ち、さらにその支藩(長州藩からは孫藩)の拠点である「清末陣屋」(山口県下関市)がありました。

 

「長府毛利邸」玄関

「長府陣屋」大手門二重櫓跡石垣(陣屋松崎口) 

「清末陣屋」跡付近と藩邸跡碑

「清末陣屋」陣屋門(明円寺山門)


また、「周防国」には「徳山陣屋」(山口県周南市)を置き、「日本三大陣屋」と言われ程の広大な陣屋だったようです。

 

「徳山陣屋」跡全景(現周南市文化会館) 

「徳山藩毛利家墓所」 (藩祖「就隆」の廟と墓)

 

また「毛利元就」の次男「元春」は「吉川家」へ養子に出ますが、その系統である「吉川家」が「岩国城」(山口県岩国市)を築いていました。
この「吉川家」と「毛利家宗家」との関係がこじれて長年に亘り疎遠になっていましたが、1856年に関係修復が行われ、着々と「毛利家」復興の準備が進められていました。

 

「岩国城」の復興天守(「錦帯橋」から見上げる)

「岩国城」の復興天守

「岩国城」の元天守台

麓の「岩国陣屋」陣屋櫓跡に建てられた「吉香神社の絵馬堂」 


そして、「吉川家」は1866年の「長州政変」の際には、都を逃れ長州に落ちた七卿の護衛や長州再征伐への参加をして「長州軍」とともに戦います。


「岩国藩」以外の支藩・孫藩は、「攘夷」への対応として外国に攻撃をかけた「下関戦争」や、国政では「禁門の変」から始まり「七卿落ち」、「長州征伐」への対応については、前述の「岩国藩」と同様に、「長州藩宗藩」と同一行動を取り、「毛利家」として総合力を発揮しました。


「長州藩宗藩」が、海沿いにあった「萩城」から山中の「山口」へ居館を移し「山口城」を築城したのと同様に、「長府藩」の「長府陣屋」も、瀬戸内の海岸沿いにあったことから、外国船からの砲撃を回避する為に山影へ居館を移して「勝山御殿」(山口県下関市田倉)として使用しています。

 

「勝山御殿」本丸表(中段)南西隅角部の石垣

「勝山御殿」本丸表(中段)の石垣 (落とし積み技法)


以上、「毛利家」が一丸となって、尊王攘夷と倒幕活動を推進した「毛利家」の「お城」をここで紹介しておきます。

 

各お城の詳細については、次回のブログから順次お届けしていきたいと思います。


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