先日10/13(火)に「大坂城」(大阪府大阪市中央区)外周を散策した時のブログをお届けしていて、本日は「大坂城(後編)」です。
前回も記載しましたが、特に今回の「大坂城」訪城は、『「大坂城」の外堀越しから見た大坂城』『違う視点から見た「大坂城」の四大門(京橋口門、青屋口門、玉造口門、大手門)』を中心に、ブログをお届けしています。
「大坂城(中編)」のブログでは、「玉造口門」跡まで見てきましたので、本日は、「二の丸」跡を直線で「大手門」に向かって進みます。
前編 https://ameblo.jp/highhillhide/entry-12631921187.html
中編 https://ameblo.jp/highhillhide/entry-12632134659.html
「大手門」枡形
周回コース
今回は、「東仕切門」跡付近からの「本丸」跡高石垣(三重櫓の櫓台跡)の写真を少し撮って、「桜門」とその門柱の間から見える「蛸石」や「天守」には一瞥しただけで全く寄らないで通過しました。
「東仕切門」跡付近からの「本丸」跡高石垣(三重櫓の櫓台跡)
「桜門」から覗く「蛸石」と「天守」
今回のように、逆コースから「大手門」へ行くコースは珍しく、「太鼓門」跡と「西仕切門」跡を通り抜けて「大手門」の「渡櫓門」に辿り着きました。
南仕切門跡
太鼓櫓台
「大手門」の「渡櫓門」城内側
「大手門」の構成は、正門が「高麗門」で前述の「渡櫓門」と「多聞櫓」そして「土塀」で囲われた大きな枡形を構成しています。これらの殆どが重要文化財に指定されています。
「大手門」の「高麗門」正面
「大手門」の「高麗門」城内側
「大手門」の「渡櫓門」枡形側
「渡櫓門」は、「多聞櫓」と連結していて、時々内部公開が行われています。そしてこの「多聞櫓」は現存している中で最も大きく長いらしいです。(「姫路城」の「西の丸」にある長局の「多聞櫓」も長いですが、幾つかの「多聞櫓」が連結しています)
「大手門」の「多聞櫓」(下には巨石が並ぶ)
それから、枡形内にはまだまだ特徴があります。正門である「高麗門」正面、「多聞櫓」の西面下には、巨石が3つも並んでいます。左から、城内では五番目に大きい「大手二番石」、四番目に大きい「大手見付石」、八番目に大きい「大手三番石」が並んでいます。
「大手二番石」
「大手見付石」
「大手三番石」
それから、「高麗門」両脇や、南側の「土塀」側には「雁木」が設備されているのと、「土塀」と石垣の間には、「玉造口門」跡でも見かけたように「銃眼」が多数並んでいて、いつでも銃撃できるようになっています。
枡形周囲には「雁木」、「土塀」と「雁木」の間に「銃眼」が備わる
「大手門高麗門」脇の「雁木」と土塀を支える「控柱」
もう一つ、南側の「雁木」の上には「多聞櫓」が建っていて今は失われていますが、名称を「市(いち)多聞櫓」と呼ばれ、礎石が並んでいます。
この「市」と呼ばれるのは、江戸時代に「大坂城」の「常番屋敷」や「大番頭小屋」等へ江戸から転勤してきた旗本に対して、必要な日用品を定期的に商人がこの場所で販売した場所から、「市(いち)」という名前が付きました。
「市多聞櫓」跡の礎石
では、「正門」である「高麗門」から結構な勾配の坂道を下り、「西外堀」沿いを歩いて北側に進みます。
「大手門」の「高麗門」から坂道になる土橋
「大手門」の「高麗門」正面の土橋
「大手門」を監視するのは「千貫櫓」(重文)です。かなり重量感のある櫓で、特別公開がある時には「西の丸庭園」側から入ることになります。
「千貫櫓」が「大手門」前を監視しています
この「千貫」という名称も謂れがあり、「織田信長」の「石山本願寺攻め」の際に、この場所に櫓が有り、それは大きくて睨みをきかしていたので、なかなか攻めあぐんでいました。そこで、「信長」はこの櫓を落とした者へは、”千貫の褒美”を与えようとまで言わしめたことから、この櫓の名前がついたと謂れています。勿論、当時は今のような形の櫓ではなく、現在の櫓は1620年築の徳川期のモノです。
重量感のある「千貫櫓」(重文)
「西外堀」を越して「千貫櫓」の姿を眺めながら北へ進みますが、堀の深さと石垣の石の多さには圧倒されます。重機類のない時代に、どのようにしてこれだけの量を運び、どのようにして積み上げたか、しかも短期間に仕上げるとは、想像を絶っします。
「大手門」前の土橋と「西外堀」(「千貫櫓」と「大手渡櫓門」も見えます)
「千貫櫓」の少し北側には「坤櫓」跡の櫓台があり、さらに沿って北上すると、「外堀巡り」のスタート地点とした「乾櫓」(重文)が見えます。
「西の丸」西側の石垣と「西外堀」
手前は「坤櫓」台
「乾櫓」(重文)
「乾櫓」は「矩形型」といって「L字」型になっていますが、「西外堀」越しには、巨大なスクエアな櫓の姿しか見えません。実は、城内側は「L字」型なので空洞になっています。凄く効率的な建て方です。
巨大な「乾櫓」、実は裏側は半分!
「西外堀」の端で」奥には「京橋口門」前の土橋
三代将軍「徳川家光」時代に、来阪(坂)した「家光」はこの櫓から手を振って大坂庶民の声援に応えたとの話も伝わります。
将軍様も、「大坂」は何となくうちとけたくなるムードがあるのでしょうか、身近に感じる雰囲気を感じるのでしょうか、或いは心が安らぐ何かがあるのでしょうか。
現在でも、お江戸(東京)から、転勤や出張で来阪する方々の多くは、そんなムードを持って大阪をエンジョイされて帰京されます。
以上「大坂城外堀巡り」は、いかがだったでしょうか。
「大坂城」に訪城しても、「二の丸」跡から「本丸」跡に行って「天守」に登り帰る方が多いと思います。時間が有れば、たまに外から「大坂城」を眺めるのももう一つの楽しみ方ではないでしょうか。
今回、ほぼ「外堀」を一周して(前述したように、今回は「南外堀」からの眺めは体験せず、以前の写真を掲載しています)、あらためて、「大坂城」の石垣や巨石の多さ、高さ、土塁は使用せず石垣使用箇所の多様さには本当に驚きました。
「江戸城」は将軍のお城でもあるのでその規模は日本最大で、36見附もあり最強のお城だと思っていますが、「大坂城」も一時、二代将軍「徳川秀忠」がここに「幕府(大坂幕府)」を置こうと計画していたこともあったとのことで、それに向けて着々と進められていたのが実感できる外周散策となりました。
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