「八幡山城(前編)」の投稿でお話しましたように、JR西日本の「秋の関西 1デイパス」(3,600円)を使った「山上陣屋」(滋賀県東近江市)→「八幡山城」(滋賀県近江八幡市)→「三上陣屋」(滋賀県野洲市)の小旅行ですが、ブログでは先に「八幡山城」をお届けしましたので、本日はまず「山上陣屋」(滋賀県東近江市山上)をお届けします。

 

永源寺山門

 

こちらへは、JR「近江八幡駅」で下車して「近江鉄道八日市線」で「八日市」駅までの乗車です。

 

近江鉄道(貴生川行、近江八幡駅にて、旧西武鉄道の車両)

 

「近江鉄道」は当線以外に、彦根~八日市を通り~貴生川まで走る「本線」があり、前述の「1デイパス」はこちらの全線も乗り放題となっていますのでお得です。

 

JR西日本の「秋の関西 1デイパス」

 

二両編成の電車で各駅停車19分で「八日市」駅に到着しましたが、接続の「近江鉄道バス」の時間まで44分間あります。

 

「本線」との接続駅である「八日市駅」は当鉄道の中では大きな駅ですので3編成の電車が止まっていたり、駅舎の二階には当鉄道の歴史や写真や沿線ガイドが展示されている「近江鉄道ミュージアム」があるので、列車写真を撮ったり見学して時間を使いました。

 

近江鉄道「八日市駅」

「近江鉄道ミュージアム」

 

「近江鉄道バス」で、約半時間乗車して「永源寺前」で下車します。途中、私は初めて「蕎麦」の白い花が咲き乱れている畑を見て思わず写真を撮りました。

 

近江鉄道バス

 

今回「山上陣屋」へ行くに当り、地図や資料を見ていて初めて知ったのが、「陣屋」近くにある「永源寺」の存在でした。

 

当寺は、臨済宗永源寺派大本山として室町時代に開山されたとのこと。しかし、戦国時代には悉く兵火によって堂宇を焼失し、江戸時代に入り、後水尾天皇や近くの彦根藩主井伊家の帰依を得て再興されて大寺院であるということです。

 

永源寺境内図

永源寺総門

永源寺山門

永源寺方丈(屋根は葦葺き)

 

そして、それ以上に興味を持ったのが、「永源寺」総門手前には、井伊家の中興の祖と言われている彦根四代藩主で幕府の大老にもなった「井伊直興」の廟所があるということと、寺院内には多くの伽藍が並ぶ中の一つである「開山堂」は、彦根藩主「井伊直惟」から「能舞台」の寄進を受けて再建したものということでした。この「能舞台」は、「彦根城」内から移築されたものではないかと思いワクワク感が止まりませんでした。

「井伊直興」の廟所

「井伊直惟」から「能舞台」の寄進を受けて再建した「開山堂」

 

これらを含めて拝観した後、少し戻って「愛知(えち)川」の河岸段丘上にある「山上陣屋」へ向かいました。

 

「山上陣屋」の辺りの支配は、戦国時代後半は「秀吉」の家臣「杉原家次」、続いて「浅野長政」「織田信高」の領地を経て、江戸時代に高崎藩「安藤家」の飛地となり、その後幕領になります。

 

暫くして、「稲垣家」が1万3千石で立藩して、この地に陣屋を築きます。しかし、「稲垣家」は幕府の重職を務め、当初「大番頭」から加増を受け大名となり、「若年寄」や「老中」を歴任する家柄でもあり、幕末まで続く家系でした。

 

そのようなこともあり、絶えず江戸に常駐する「定府大名」でしたので参勤交代もなく、陣屋そのものも大きくはなかったと思われます。

 

現在は、「永源寺」へ向かう紅葉橋南詰の手前交差点から少し高くなったところに、「山上陣屋」の解説板とともに、「元天神社鎮座地=稲荷大明神」の場所であったことを示す碑、そしてお城とは関係ないですが、「殉国碑」(太平洋戦争時に亡くなった潜水艦関係者を慰霊する碑)が立っています。

 

「山上陣屋」説明板がある交差点(紅葉橋南詰め、茂みの辺り)

「山上陣屋」説明板と碑(元天神社鎮座地=稲荷大明神)

 

そこから、八日市に向かう街道を東に少し進んで川方向に入った所が、陣屋があったそうですが、現在は民家が建ち並んでいるだけで何も遺構はありませんでした。

 

陣屋跡付近

陣屋跡付近

 

さらに、川とは反対になる小高い丘上には、戦国時代に築かれたであろう「小倉山上城」があったらしく、現在その地に建つ「安養寺」階段前には小さな「城跡碑」が立っていました。

 

小倉山上城跡(現在、安養寺) 

小倉山上城跡(現在は寺横の空き地) 

 

最後の藩主「稲垣太清(ふときよ)」は、明治維新後に江戸在住の藩士やその家族を「山上」に移住させて、「稲垣家」のお殿様本人も初めてお国入りして、「安養寺」の近隣に居住したそうです。当時の藩主は、東京へ移住した人が多い中で、珍しかったと思います。

 

 

続いて、「三上(みかみ)陣屋」(滋賀県野洲市)には、「八幡山城」を見て大阪に向かう途中の「野洲」駅で途中下車しました。

 

駅から約2㎞少しあり、もうすでに足の指が痛く少しくたばりかけていましたので、駅で自転車を借りてレンタサイクルしました。

 

こちらへは、だいぶ前に来ていますが、陣屋跡の写真があまりなく、また民家に残る「陣屋門」の写真の写りも良くなかったので、写真撮影の為に行くのが目的でした。

 

「三上陣屋」の藩主は、美濃の「郡上(ぐじょう)」で治めていた「遠藤家」が、無嗣断絶がありましたが家督相続が上手くいって1万石が与えられ近江に移封されて三上の地に管理の為の陣屋を築きます。

 

「遠藤家」は、五代将軍「徳川綱吉」の側室の妹との繋がりもあったので、「大番頭」となりその後も代々幕府の要職を務めます。そして、1837年に大坂で「大塩平八郎の乱」が勃発した時には「大坂城玉造口定番」で活躍し、その後は「若年寄」に昇進し加増を受けて「城主格」が許されました。

 

「城主格」というものの、参勤交代をしない「定府大名」で、陣屋常駐藩士は10人規模のまま、幕末維新を迎え、維新時には、領地入れ替えで和泉の「吉見」と安房に移されました。

 

「陣屋」跡は、「近江富士」と呼ばれる円錐型の山の麓にありました。この「近江富士」は、滋賀県のかなりのエリアからも望め、琵琶湖の対岸からも美しい姿を眺めることができます。

 

「近江富士(三上山)」(前の山が邪魔で円錐に見えないが、遠くからは富士山の形)

 

「陣屋」跡と言われる場所には、小川が流れその両脇には石積みが見られますが、これが陣屋を構成していた石垣かは不明です。

 

陣屋跡の石垣か?

 

「陣屋」跡内は、曲がりくねった小路が走り、以前訪れた時に見つけた「陣屋門」であった民家の門が、その曲がりくねった小路を何度廻っても探し当てることができませんでした。今回は、これが大誤算でしたが、以前撮った写真を下に掲載しておきます。

 

以前に撮影した「陣屋門」

以前に撮影した「陣屋門」(反射して形が解りずらい)

 

「陣屋」跡端に当たる場所には、「天保義民碑」が立ちます。これは、1842年に近江一帯で発生した幕府に対する不当な検地への抗議である「百姓一揆」で、「三上藩」内の農民など多くの犠牲の上に立って、幕府から「検地十万日延期」の証文を勝ち取ったそうです。

 

陣屋跡地近くに立つ「天保義民碑」

 

近くの「御上(みかみ)神社」は、「三上山」から「天之御影命(あめのみかげのみこと)」が三上山に降臨したことが発祥とのことです。すごく立派な「楼門」(重文)の後ろに縦に並ぶ「拝殿」(重文)と「本殿」(国宝)は、檜皮葺の屋根を持つ非常に神々しい神聖な建造物でした。

 

「御上神社」の楼門

「御上神社」の拝殿と本殿(奥)

 

時間が余りなく、また小雨もパラツク中を、必死になって自転車をこいで「野洲」駅まで辿り着き、当初計画の乗車予定の「新快速」で大阪まで戻り、帰宅時に用事のあったJR「宝塚線」の「川西池田」駅で下車しました。

 

JR、近江鉄道、レンタサイクル1回分含めて約4,800円相当でしたが、3,600円の「1デイパス」で凄くお得に楽しむことができました。

 

この小旅行が、これからの大いな「お城めぐり」のキッカケとなればと思っています。

 

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