外圧で開国を迫られ、安政の大獄や将軍継嗣問題、攘夷運動等が高まる中で、幕府が威信低下していく幕末、そして、最後の将軍”徳川慶喜”が大坂から江戸へ逃避する迄の間に起こった出来事に纏わるお城をシリーズ化しています。

 

この間の概ねの歴史的出来事については、下記のURL(前回のブログ)でご確認ください。

幕末の経緯  https://ameblo.jp/highhillhide/entry-12628091533.html

 

萩城(前編)  https://ameblo.jp/highhillhide/entry-12629778878.html

萩城(中編)  https://ameblo.jp/highhillhide/entry-12630176276.html

 

前日のブログでは、「萩城」三の丸跡から外堀を渡り、「呉服筋」沿いの豪商達が集まる街並みを見てきました。

彼らもまた、幕末維新では藩財政面から少なからず加勢した集団であったと思います。

 

呉服町筋界隈から南に折れた江戸町横丁に入り込むと、そこには幕末の志士達を多数出した中・下級武士の居住地の邸宅や誕生地が集まります。本日のブログ「萩城(後編)」(山口県萩市)では、幕末維新の志士達が、「尊王攘夷」「倒幕」に至るまでの思想を醸成し、それをベースに活躍したエリアを見ていきたいと思います。

 

長州藩全体の思想構築を図った藩校「明倫館」(現在は明倫館小学校。観徳門、有備館などが残る)

 

横丁内には、「木戸孝允(たかよし)」「青木周弼(しゅうすけ)」の邸宅、「高杉晋作(しんさく)」の誕生地の家が並び、もう少し南に進むと「久坂玄端(げんば)」の誕生の地もあります。

 

「木戸孝允」と「高杉晋作」の邸宅の中を見ますと、「長州藩」のこの時期ですら、父親の身分によって建物外観や中の広さが違っていたことが良くわかる建物構成でした。

 

木戸孝允旧宅の門

木戸孝允旧宅 (公用の間)

木戸孝允旧宅 

高杉晋作誕生地の門

 

高杉晋作父小忠太宅(高杉晋作誕生地) 

 

国道191号線沿いには、6代藩主「吉元」が創建して、14代「敬親」がこの地に移転させた藩校「明倫館」があります。

 

「明倫館」の切妻造、本瓦葺、四脚門の非常に大きな「表御門」が目立ちますが、それ以外にも、現在「明倫小学校」の敷地内には、当時の藩校の史跡で、正門と聖廟の間に位置していた「観徳門(聖廟前門)」や、明倫館内で剣術・槍術の稽古場として使用されていた「有備館」、更にはプールとして利用されていた「水練池」も残っています。

 

藩校「明倫館」表御門(切妻造、本瓦葺、四脚門)

 

観徳門(聖廟前門、正門と聖廟の間に位置)

有備館(明倫館内で剣術・槍術の稽古場)

有備館(明倫館内で剣術・槍術の稽古場)

 

国道191号線を更に東へ進み松本川を跨ぐ「松陰大橋」を渡ると、「伊藤博文」の旧宅や邸宅を見ることができます。

 

松本川(上流方向)

 

そして、「松陰神社」の脇には、かの有名な「松下村塾」の小屋が「吉田松陰幽囚ノ旧宅」とともに佇んでいます。

 

国指定史跡「松下村塾」は、言わずとも知れた「吉田松陰」が、1842年に松陰の叔父「玉木文之進」が私塾を開いたところを、1857年に松陰が引き継いで、身分に関係なく沢山の門下生を受け入れ、幕末の志士を育成した所で、2015年のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」の当初中心場面にもなっていました。

 

松陰神社

松下村塾(国指定史跡)

松下村塾(国指定史跡)裏側から

吉田松陰幽囚ノ旧宅 

 

この付近にも、多くの志士の卵たちが誕生したり居住したりしていました。特に明治新政府において立身出世を遂げ初代首相になった「伊藤博文」の生誕の家と、その後別邸として構えた邸宅も生誕地の横に残ります。

 

伊藤博文像

伊藤博文旧宅(1854年頃から伊藤家に入家でこの家に住む)

 

立身出世後の伊藤博文別邸玄関

伊藤博文別邸と離れ

長州ファイブ(幕末に長州藩からヨーロッパへ派遣された五傑<伊藤博文、井上馨、遠藤謹助、山尾庸三、井上勝>)

 

松本川の下流で日本海に注ぎ込む辺りには萩市内に四つある「重要伝統的建造物群保存地区」の一つである「浜崎地区」が拡がっています。

 

こちらは、旧漁港を中心に発展した街で、現在でも多くの旧家が軒を並んでいます。この中に、「萩城(前編)」のブログでも記載した「藩御船蔵」があります。

 

浜崎重要伝統的建造物群保存地域 

 

浜崎重要伝統的建造物群保存地域 

浜崎重要伝統的建造物群保存地域 (旧山村家)

藩の船蔵(現存)

 

こちらから、すぐ近くだったのですが、時間的に訪問が出来ず残念だったのが、現存の「反射炉」です。これは、西洋式大砲を鋳造する為に、当時「長州藩」が建造した「反射炉」の煙突部分で、近代産業遺産群として保存されています。

 

最後に、「聚楽第裏門」がこの萩に移築されているのをご存知でしょうか。現在は、「常念寺山門」に移築されていて、これは、「毛利輝元」が「聚楽第」解体時に「豊臣秀吉」より拝領した言われています。こんな遠くまで、当時の豊臣政権下で、「秀吉」の威信を欲しがっていたのでしょうか。

 

聚楽第裏門(現 常念寺山門)

桃山様式の彫刻

 

以上3回に亘りって「萩城」をお届けしてきました。

 

当時では他藩に先駆けて、江戸時代中期からこの城下で「尊王攘夷」の思想が育まれ、更にそれが幕末には「倒幕」という流れに繋げていきました。「京」での過激な行動で、一時は「江戸幕府」から追放され攻撃を受けたりしますが、その後はうまく「薩摩藩」と手を結び、幕末維新を泳ぎ切ることになります。

 

上記の思想を一層確固として、多くの幕末の志士達を輩出する素地になったのが、「吉田松陰」が主宰した私塾「松下村塾」ですが、そこを中心に幕末の「萩城」は人も街も全体が活性化したようです。

 

このシリーズでは、もう少し「長州藩」周辺の支藩のお城を見ていきたいと思います。

 

 

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