昨日のブログでも記載しましたが、1700年代後半からロシア船による「蝦夷地」(北海道)への来航が相次いだので、江戸幕府は「蝦夷地奉行」(後に箱館奉行)を置いて海防対策を取るようになりました。

 

更に1854年の「日米和親条約」締結で「箱館」の港を開港することになったので、「蝦夷地」(北海道)は「松前藩」以外の領地を幕府が管理するようになりますが、国防の為に各所の前線基地には、東北諸藩から要員の配備を含めて「出張(でばり)陣屋」を設けさせました。

 

本日お届けする「戸切地(へきりち)陣屋」(北海道北斗市)は、この一環で、幕府が「松前藩」に命じて築城させたお城(陣屋)で、1855年に完成しています。

 

復元大手門(昭和54年から平成13年迄整備された) 

 

しかし、戊辰戦争の延長戦である「箱館戦争」では、「箱館」に上陸した「榎本武揚」が率いる「旧幕府軍」が進軍してきたので、新政府軍に組み込まれていた「松前藩」は、抗しきれないと判断し、「戸切地陣屋」に自ら火を放って「松前城」へ敗走してしまいました。

 

さて「戸切地陣屋」ですが、元々は1854年の「箱館港」開港に応じて、「箱館」の街を監視する要衝として「松前藩」が築城したものです。

 

万一に備えて、外国から攻められたときには、対抗すべく四角形の「稜堡式」縄張りを採用して、四つの内最も「箱館」に近い「稜堡」には6台の大砲を据え付ける「砲座」を持つ「砲台」になっていました。

 

縄張り図(右下の亀の頭が砲台)

亀の頭部分にある大砲入跡(奥の土塁が凹んだ所が砲座跡) 

凹部分が砲座跡で6箇所ある 

 

「五稜郭」「四稜郭」同様に大砲を「砲台」へ持ち上げる為のスロープが用意され、普段は大砲を収納する場所も確保されていました。

 

大砲入跡 

 

その「砲台」脇には、「表御門」を置き、これも「五稜郭」と同様に、城内に侵入してくる敵の見通しを妨げる仕掛として「蔀(しとみ)土塁」(「馬隠し」とも言われていた)が備え付けられていました。

 

桜並木が続く大手道(この先が大手門)

復元大手門とその中に馬隠しが見える

大手門内側の馬隠し 

 

そして「表御殿」と対になる場所には「裏御門」も置かれ、「表御門」と同様の仕掛けが施されていました。「裏御門」から少し離れた外部には「火薬庫」が設けられていました。

 

復元搦手門と中に馬隠し 

復元搦手門(脇には3mの土塁)

復元搦手門内の馬隠し(横から見る)

表御門の馬隠し上から搦手門方向を臨む 

 

周囲は、かなり高い土塁で囲い一周できるようになっていて、勿論その下周囲は深い堀が取巻いていました。

 

復元大手門脇の土塁(約3m)

土塁から亀の頭部分方向 

北隅の稜堡に向けて土塁と空堀が伸びる 

北の稜堡先端部分(土塁が二段)

北の稜堡から搦手門方向の土塁上 

南西土塁上(左が空堀) 

南稜堡先の土塁

三段の土塁 (西側)

筒入跡から南稜堡先端方向 

 

城内は、「松前藩」士が半年ごとに交替しますが、半年間の生活ができるように、詰所4棟、井戸、蔵(米、味噌、炭など)、厩舎が備え付けられていて、その礎石が残ります。

 

蔵跡と足軽詰所跡 

足軽詰所跡、諸士詰所跡 

備頭・目付詰所跡 

諸士詰所跡 

 

四角形ながらも、前回紹介した函館市の「四稜郭」に比べると、こちらは駐在型で造られていますので諸施設を完備し、土塁による防備もしっかりと造られていますので見所も多いでした。

 

こんなに立派な「陣屋」でしたが、「箱館戦争」時には守備兵しか居なかったことで、逃避せざるを得なかったんだろうと思いました。

 

次回のブログからは、蝦夷地(北海道)に設けた出張陣屋をお届けしていきます。

 

 

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