明治維新時に東北諸藩が結成した「奥羽越列藩(おううえつれっぱん)同盟」藩のお城紹介をするシリーズです。
「薩摩藩」「長州藩」を中心とした明治新政府が、幕末に「京」や「江戸」で受けた取締りの報復もあって、「会津藩」と「庄内藩」を“朝敵”にしました。新政府に“朝敵”の赦免嘆願するべく東北諸藩が一丸となって結成されたのがこの「同盟」でしたが、それを拒否されたことから「同盟」が軍事化していきました。
本日は、「請西陣屋」の予定でしたが少し変更して、「同盟」を結成する原因となった当事者藩の一つ「庄内藩」の支藩として行動を共にした「出羽松山藩」のお城「出羽松山城」(山形県酒田市)をお届けします。
大手門(県文化財)
「松山城」という城名は、「伊予松山城」(愛媛県松山市)と「備中松山城」(岡山県高梁市)にいずれも天守が現存していて重要文化財に指定されているので有名ですが、出羽にも「松山城」があります。
※因みに、「宇陀松山城」(奈良県宇陀市)もあります。
「出羽松山城」の前身は、14世紀後半南北朝時代に「佐藤正信」が拠点としていましたが、戦国時代には「上杉家」と「最上家」の争いの中で「上杉家」の支配下に置かれました。
関ケ原の戦い後、「上杉家」から「最上家」の所領となりますが、お家騒動で「最上家」が取り潰しとなったことから、「酒井忠勝」の所領となります。
この「酒井忠勝」ですが、同時代に幕閣として大老にもなり「小浜城」城主の始祖でもあった「酒井忠勝」とは、同姓同名の別人です。
1647年に「忠勝」が逝去した後、「忠勝」の三男「酒井忠恒」が「庄内藩」の支藩としてこの地に「中山陣屋」を設け、1664年には「松山陣屋」と地名を改めます。
1760年に三代目の「忠休」が幕閣の若年寄として手腕を発揮したことから、城主格となって幕府からお城を築くことが許可されます。陣屋時代からの「御殿」を中心に、「大手門」と「物見櫓」が加わり、城内初で鯱を上げた「大手門」が建造後すぐに落雷で焼失してしまいます。
大手門(県文化財)-桟瓦葺、入母屋造り、櫓門)
そして、「庄内藩」の支藩でもあったことで、譜代大名のお城としては珍しく、17世紀中頃から幕末・維新まで「酒井家」が領主として「出羽松山城」を統治します。
このような関係から、戊辰戦争でも「庄内藩」と共に行動し、1867年の江戸「薩摩藩邸焼打ち事件」にも参加したことで、「朝敵」にされてしまいます。
さて「出羽松山城」は、「本丸」を中心に、北・東・南側から「二の丸」に囲まれ、「三の丸」は北・西・南側から「二の丸」を包み込む縄張りで、梯郭式平城でした。
「大手門」は立派な「櫓門」で、屋根上には青銅製の鯱が上がりました。当門は「三の丸」の西側に建てられますが、前述の通り1790年に落雷で焼失したことから、酒田の大地主であり大富豪であった「本間家」の寄進によって再建され、それが今も現存しています。
現在は、城跡は「松山歴史公園」となっていて、その中央に山形県指定有形文化財になっている現存「大手門」が建ちます。
大手門に上がる立派な青銅製の鯱
大手門(桁行正面五間、背面三間、梁間三間)
大手門横から
背面から
櫓門内の階段
「松山文化伝承館」内展示の青銅鯱左側
現在は公園内のモニュメントとなっている「大手門」は、この前には一時「松嶺高校(現在廃校)」の校舎の一部になっていましたが、そこから分離してこちらへ移築されました。当時の写真を見たことがありますが、今の面影が殆どなかったように記憶しています。
松山歴史公園城門風の入口
松山歴史公園内(大手門の前)
「大手門」前には「丸馬出」を構えていました。また、「二の丸」の南東部には「十三間堀」が掘られました。
馬出跡土塁(公園内)
当公園は、城郭らしく模擬の城壁が巡らされています。公園内には、「井戸」や「土塁」などが残る他に、城内唯一の櫓だった「物見櫓」跡の碑が立ちます。
松山歴史公園周辺を城壁風に
松山歴史公園内にある井戸
物見櫓跡付近
「本丸」跡の西側辺りには、「本丸土塁」が横たわり、閉園された幼稚園の場所が「本丸御殿」跡で、「松山城本丸御殿跡」碑が立っています。
本丸の土塁
本丸の土塁
本丸御殿跡地(現在は閉園された幼稚園)
城域内には、「十三間堀」の遺構を取り込んだ「外濠公園」の他にも「南町口番所跡」や、「酒井家」の菩提寺「総光寺」の山門も見応えがあります。
南町口番所跡地
総光寺山門
山門の組木
次回ブログは「請西陣屋」をお届けします。
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