明治維新時に東北諸藩が結成し「奥羽越列藩(おううえつれっぱん)同盟」藩のお城紹介をするシリーズです。

 

当同盟は、「薩摩藩」「長州藩」を中心とした明治新政府が、幕末に「京」や「江戸」で受けた取締りの報復もあって、「会津藩」と「庄内藩」を“朝敵”にしました。新政府に“朝敵”の赦免嘆願するべく東北諸藩が一丸となって結成されたのがこの「同盟」でしたが、それを拒否されたことから「同盟」が軍事化していきました。

 

本日は、「天童陣屋」(山形県天童市)をお届けします。

 

天童陣屋絵図

 

この陣屋は、「織田信長」の子孫である「織田信美」が江戸時代も末期の1828年に当地に入り、そして幕末・維新までこの地を統治しています。

 

「織田家」は、本能寺の変で「信長」とその息子「信忠」が亡くなりましたが、「信長」の兄弟系統と、「信長」の息子系統が、江戸幕府機構の中で幕末・維新まで存続しています。

 

ここで、「織田信長」周辺の織田家の人達と、その統治の中心の居城について纏めてみました。(「江戸日本を創った藩祖総覧」(武光 誠著)を参照系図して下記系図を作成)

 

織田家家系図

 

「信長」の兄弟は主に5人いましたが、弟の「信包(のぶかね)」と「長益(ながます)=有楽斎」は、江戸時代になっても大名として領地が与えられました。

 

「信長」の兄弟で「信包」の系統は、「信重」と「信則」で絶えています。一方の「長益(有楽斎)」の系統は、「長政」は「芝村陣屋」(奈良県桜井市)を、「尚長」は「柳本陣屋」(奈良県天理市)を築いて幕末・維新まで続きます。

 

「織田信包」が当初入城した「柏原陣屋」、御殿の一部が残る。「信包」系統が絶えた後一時幕領、その後は「織田信雄」系統が入城

「織田信包」が当初入城した「柏原陣屋」、陣屋門が残る

「織田長益(有楽斎)」の息子「織田長政」系統が入城した「芝村陣屋」、現在は織田小学校

「芝村陣屋」から移築された慶田寺山門

「織田長益(有楽斎)」の息子「織田尚長」系統が入城した「柳本陣屋」、現在は柳本小学校

「柳本陣屋」の表向御殿が、「橿原神宮文華殿」として移築再利用

 

「信長」の息子達は、数人いましたがその内の主に2人ですが、本能寺の変で逝去した「信忠」の息子であり「信長」の孫である「秀信」は、「豊臣秀吉」により清須会議で「信長」の後継者として担ぎ上げられた「三法師」で「岐阜城主」となりましたが、その後関ケ原の戦いを経て改易され自刃したそうです。

 

もう一人の「信雄(のぶかつ)」は、「清須会議」で秀吉に対する不満を持ち、「徳川家康」側にすり寄って「秀吉」に対抗しました。小牧・長久手の戦い以降は豊臣政権で改易されましたが、大坂の陣後には「家康」に取り立てられて、「大和宇陀」(奈良県宇陀市)と「小幡」(群馬県甘楽郡)に領地を与えられ、それぞれ「宇陀松山城」、「小幡陣屋」を構えました。その後、「信雄」の息子たちに「信良」が「小幡陣屋」、「高長」が「柏原陣屋」へ分与します。

 

「織田信雄」、その後「織田高長」に分与されて築いた「宇陀松山城」の現存黒門

「宇陀松山城」の天守台

「織田信雄」、その後「織田信良」に分与されて築いた「小幡陣屋」の復元庭園

「小幡陣屋」前の武家屋敷入口

 

「織田信良」は、「上野小幡」(群馬県甘楽郡小幡)の領地を任されていましたが、その後「出羽高畠」(山形県東置賜郡高畠)に移封され、更に当時の藩主「信美」が天童に移されて、そこで「天童陣屋」(山形県天童市)を築きます。

 

前置きが長くなりましたが、「天童陣屋」は、中央「本丸」に該当するスクエアな敷地には「御殿」が建ち、周囲には「稲荷神社」「番所」「番所太鼓」「蔵」を配備しました。その周囲を堀で囲います。

 

天童陣屋絵図

「喜太郎稲荷神社」前

 

「本丸」を取り巻くエリアが「二の丸」ですが、「稲荷」「厩(馬屋)」「米蔵」「籾蔵」「藩校」及び藩士達が居住する「長屋」が多数点在します。そして「本丸」から東側に真っすぐ伸びる道が「大手道」でその先に「大手門」が置かれました。

 

現在は、「喜太郎稲荷神社」付近が陣屋跡ですが、JR奥羽本線と山形新幹線の路線の中央を通したので分断されています。

 

陣屋中心跡に建つ喜太郎稲荷陣屋

陣屋跡(現在は公園)

 

その周囲は、住宅地が密集していますが、「大手道」であろうと思われる真っすぐな道路がありました。

 

大手道周辺

城内跡に建つ雰囲気のある邸

 

また、近くの高台には、藩祖「織田信長」を祀る「建勲(たていさお)神社」があります。

 

「信長」を祀る「建勲神社」

「建勲神社」前に掲出している「天童織田家」の系図

 

「織田信長」の系統が、大大名ではないものの数多くの大名として脈々と江戸時代を通じて生き続けていることに非常に興味を覚えます。また現在、元フィギュアスケーターでフィギュアのコーチやタレント活動をしている「織田信成」さんは、「信長」7男の「信高」の系統の末裔とかで、江戸時代には高家旗本だったようです。

 

最後になりましたが、戊辰戦争での動きは、新政府から奥羽鎮撫軍の先鋒を命じられ、「庄内藩」の討伐を始めますが、逆に「庄内藩」から猛攻撃を受け、続いて「天童」領地に入った新政府軍は「天童陣屋」に攻める勢いでしたので、「天童軍」は自ら「陣屋」を燃やし逃避しました。

 

次回ブログでは、「弘前城」をお届けします。

 

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