明治維新時に東北諸藩が結成した「奥羽越列藩(おううえつれっぱん)同盟」藩のお城紹介をしているシリーズです。

当同盟は、「薩摩藩」「長州藩」を中心とした明治新政府が、幕末に「京」や「江戸」で受けた取締りの報復もあって、「会津藩」と「庄内藩」を“朝敵”にしました。新政府に“朝敵”の赦免嘆願するべく東北諸藩が一丸となって結成されたのがこの「同盟」でしたが、それを拒否されたことから「同盟」が軍事化していきました。

今回は、「本荘城」(秋田県由利本庄市)をお届けします。

本荘城の全体模型(郷土資料館内に掲出)

現在の本丸跡絵図


「最上義光」は、関ケ原の戦いの東北版で「上杉景勝」と戦って、戦後、庄内3郡と由利郡が加増されました。

「義光」の重臣であった「楯岡(たておか)満茂」が、由利郡を任せられて築城したのが「本城城(後に本荘城に改称)」でした。1610年に入城して、苗字を「本荘家」と変更します。しかし、「最上家」がお家騒動で所領没収になり、その後1623年に「六郷政乗」が2万石で入城して、幕末・維新迄続き統治します。

因みに、「宇都宮城釣天井事件」で失脚させられた元「家康」の側近「本多正純」は、失脚減封後の移封先に「本荘城」を打診されましたがそれを拒否、「横手城」での預かりとなって生涯幽閉生活を送りました。

戊辰戦争では、「同盟」に加盟していましたが、「久保田藩」「亀田藩」が新政府軍に寝返ったことから、「同盟」主力の「庄内藩」から攻撃を受け、隣接の「亀田藩」が降伏したので、城主自ら火を放ち「久保田城」へ逃れました。

「本荘城」は、平山城で「本丸」を「二の丸」「三の丸」が囲う輪郭式のお城です。「二の丸」と「三の丸」の間、北側から東側にかけて「水堀」を装備し、現在でも北側の水堀は水を湛えています。

本丸・二の丸絵図(郷土資料館内に掲出)

城下の絵図(郷土資料館内に掲出)

三の丸土塁と堀

蓬莱橋から堀を見る

三の丸外堀


六郷時代には「具足櫓」「干飯櫓」「弓櫓」「長柄櫓」「鉄砲櫓」の五基も築きました。

具足櫓跡

弓櫓跡

長柄櫓跡

本丸周囲を取り巻く土塁上


「本丸」内には、南側には「枡形虎口」を備え、東側と北側で「二の丸」に繋がっていました。また、「稲荷神社」「本荘神社」を祀っていました。

 

本丸御門跡(下りると二の丸跡)

本丸跡

本丸内招魂社

本丸内本荘神社

本丸土塁から本荘市内をのぞむ

御手作堤(堀代用、本丸の南側)


現在は、「本丸」「二の丸」跡は「本荘公園」として開放され、「本丸」跡には城郭建造物の資料館が建ちます。

本丸跡と二の丸跡がある丘

本丸跡に建つ終身館(藩校名を付けた建物)

二の丸跡

二の丸硝煙蔵跡

三日月堀(左の本丸に沿ってできた三日月、草が覆っていて形が見えない)

鐘楼風展望台(二の丸東部)

二の丸跡東部

大手門前の蓬莱橋


「三の丸」には、藩主「居館」や「藩庁施設」の御殿が設けられ、藩校の「修身館」が建てられていましたが、現在は広場となっていて、1994年に「復興城門」が再築されました。

三の丸跡全景

三の丸跡(本荘公園)から本丸内修身館を見上げる

復興大手門

三の丸模擬城門

永泉寺山門(本荘藩六郷家の菩提寺)

藩主六郷家の墓所


次回のブログでは、「磐城平城」をお届けします。

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