明治維新時に東北諸藩が結成し「奥羽越列藩(おううえつれっぱん)同盟」藩のお城紹介をするシリーズです。

 

当同盟は、「薩摩藩」「長州藩」を中心とした明治新政府が、幕末に「京」や「江戸」で受けた取締りの報復もあって、「会津藩」と「庄内藩」を“朝敵”にしました。新政府に“朝敵”の赦免嘆願するべく東北諸藩が一丸となって結成されたのがこの「同盟」でしたが、それを拒否されたことから「同盟」が軍事化していきました。

 

本日は「二本松城」(福島県二本松市)をお届けします。

 

模擬二階櫓と土塀

 

1414年に「畠山家」によって築城されますが、その後「伊達政宗」の攻撃で陥落し「伊達家」のお城になります。

 

そして、「秀吉」による奥羽仕置によって「蒲生氏郷」の会津若松城の支城となり、続いて「上杉景勝」が会津若松城に入りますが、関ヶ原の戦い後は、「景勝」は米沢へ移されましたので、再度「蒲生家」の支城となり、この間は各家の城代が入城していました。

 

1627年に「加藤家」が「会津若松城」主となって、その娘婿「松下家」が初代「二本松藩」主となりますが、「加藤家」が一代で終わり、1643年に「丹羽光重」が10万石で入城して大修築を行い、以降は幕末・維新まで「丹羽家」が領主として務めます。

 

「戊辰戦争」では、当時「白河城」は「二本松藩」の預かり城だったので新政府軍に攻められても、「同盟」軍として守備をしました。しかし、新政府軍との間で争奪戦を繰り返すうちに、「三春藩」が寝返って「同盟」軍は総崩れとなり「二本松城」が攻撃を受け、少年兵中心の「二本松少年隊」からも多数の死者を出しました。

 

戊辰戦争時に「丹羽和左衛門」と「安部井又之丞」の自尽碑(天守台脇)

 

さて「二本松城」は、築城名人として名を轟かせた「丹羽長重」の子「丹羽光重」が大改修をして近世城郭に仕上げました。

 

345mの「白旗ケ峯」の山頂に石垣づくしの「本丸」を置き、「天守」が建てられたという記録はないものの、北東隅には「天守台」を設け、二つの櫓台と「多門櫓」が連結していたそうです。

 

本丸跡

本丸跡から天守台を見る

天守台と本丸石垣

東櫓台(天守台から)

本丸下の野面積み石垣

 

しかしながら、「本丸」を中心に、三方向に伸びる尾根を「八幡平」や「権現丸」という曲輪を置き、もう一つの尾根では「堀切」で遮断しています。また、「本丸」南側には「野面積み」の石垣が見られます。

 

山頂から下る中腹には、「搦手門」「日陰の井戸」「新城館」「茶室の洗心亭」があって、「洗心亭」は茅葺・寄棟平屋造りで城内唯一残る江戸時代の城郭建造物です。「新城館」は、「畠山家」時代の「二本松城」の中枢部であった場所とのことです。

 

搦手門跡(門の台石の石垣と礎石が残る)

日影井戸(日本三大井戸の一つ)

茶亭「洗心亭」(茅葺寄棟平屋造り、城内唯一の建物、1837年の山崩れで移築していたが1907年に元の場所へ再移築)

茶亭「洗心亭」

傘松(茶亭「洗心亭」の前辺り)

 

「三の丸」には、藩政を行う「三の丸御殿」等が建てられ、南側土塀下の「三の丸石垣」は迫力満点です。そして「三の丸」の出入口は櫓門の「箕輪門」で、「二階櫓」「多門櫓」が監視し、東には「土塀」が延びます。「二本松城」の写真と言えば、必ずこのアングルが掲載されます。ただ、「二階櫓」は、昔の絵図には表現されていないので、模擬櫓のようですが、この3城郭建造物は、非常に嵌っていると思います。

 

三の丸石垣と二階櫓(模擬櫓) 

三の丸石垣と多門櫓、箕輪門、模擬二階櫓

三の丸石垣と多門櫓、箕輪門

箕輪門(右)、模擬二階櫓(左)

「箕輪門」から石段を降りた所には、「戊辰戦争」で多くの死者を出した「少年隊」の銅像が立っています。勇ましい姿で描かれていますが、当時は悲惨な状況下での出兵だったんだろうなと思いました。

 

二本松少年隊群像(12~17歳の少年62名が出陣し、城下の大壇口で激戦した。後ろは千人溜)

「藩庁門」跡

 

当城は「郭内」と「郭外」に分けられ、前者は「武家地」で後者は「町人地」として機能しましたが、各々への出入口は「竹田門「池ノ入門」「坂下門」「久保丁門」「松坂門」の五門でした。

 

特に、「竹田門」の外側には「水堀」が掘られ、「坂下門」は観音丘陵の中央に構え「大手門」として機能させていました。

 

坂下門跡(二本松城の大手門、内郭と外郭の出入口の五門の一つ) 

 

私が「二本松城」を訪問したのは、随分前ですので、風情が替わっている写真もあると思います。どうかお許しください。

 

次回ブログでは、「福島城」をお届けします。

 

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