明治維新時に東北諸藩が結成した「奥羽越列藩(おううえつれっぱん)同盟」藩のお城紹介をするシリーズです。
当同盟は、「薩摩藩」「長州藩」を中心とした明治新政府が、幕末に「京」や「江戸」で受けた取締りの報復もあって、「会津藩」と「庄内藩」を“朝敵”にしました。新政府に“朝敵”の赦免嘆願するべく東北諸藩が一丸となって結成されたのがこの「同盟」でしたが、それを拒否されたことから「同盟」が軍事化していきました。
本日は「三春城」(福島県田村郡三春町)をお届けします。
城郭想定図(江戸時代初期、城山内に掲出)
1504年に「田村義顕」が守山から当地に移った時に築城したとされます。その後、「豊臣秀吉」の奥羽仕置きで「田村家」は所領を没収されて「伊達家」の領地になり、続いて「蒲生氏郷」「上杉景勝」の領地となります。
その間、各氏の重臣が城代を務めますが、「上杉家」が米沢に移された後に三家が入れ替わり入城し、「松下家」の時に近世城郭に修築します。
この後、「秋田俊季(としすえ)」は1645年頃に「三春」に移され、以降は「秋田家」が「三春城」で幕末・維新まで統治します。
「戊辰戦争」では、藩内はどちらに属すべきか揺れ動き、当初は新政府の「鎮撫軍」に属すも、翌月には「同盟」に加盟します。しかし、「同盟軍」による「白河城」争奪戦では、突如寝返って「同盟軍」に攻撃を加えて「同盟」を離脱しました。
本丸内の碑「明治戊辰従三春藩士烈碑」
「三春城」は、標高407mの頂上部に「本丸」が置かれ、西側に「二之丸」を、「三之丸」は100m下の麓に置かれました。
「三春城」がある城山
城郭想定図(城山内掲出)
「本丸」には、「奥」と呼ばれる「御殿」を構成する多くの建造物が建っていました。
本丸跡
本丸「奥」跡
本丸「大広間」跡
本丸内にある石垣台(何が建っていたのか?)
「本丸」より一段下に構えた「二之丸」西端には「御三階」が建てられ、出入口の「表門」「裏門」は「本丸」と「二之丸」の間に設けていました。私が訪問したのは随分前で、その時に「御三階」の発掘調査を行っている最中でしたので、その後何か新しい発見が見つかったかもしれません。
二之丸跡(本丸より一段下)
二之丸「御三階」跡
三春城の碑(裏門跡付近、二之丸から本丸の登り口)
「裏門」跡から出た辺りには、「矢倉」跡碑が立っていますが、これは「蒲生(がもう)家」時代に建てられていたモノなのでしょうか、「矢倉」跡の野面積みの石垣も見ることができます。
矢倉跡(本丸までの途中)
矢倉跡の上に野面積みの石垣
「本丸」から「三之丸」に至るまでの間には、「三之門」「揚土門」「二之門」の各門を構えて守りを固めていました。「三之丸」には、藩庁として「御殿」が建てられていて、現在は「三春小学校」の敷地になっています。
二之門跡
「三春城」の三之丸藩主御殿跡(現 三春小学校)
「三春城」の三之丸藩主御殿跡(現 三春小学校)
「三の丸」付近に「お城坂」という場所がありますが、江戸時代にこの坂道の両側に重臣の屋敷が並んでいた所で、現在でも屋敷の石垣が現存しています。
お城坂
お城坂に残る石垣
「三春小学校」の校門には、藩校「明徳堂」の表門「明徳門」が遺構として残っています。
藩講所表門(おまつり道路側から)
藩講所表門(校内側から)
藩講所表門の柱足部分
また、秋田家の菩提寺「高乾院」には、藩主「秋田家」の廟所があり、江戸中期の和唐式中央宝形造りの「御霊屋」がひっそりとした林の中に佇んでいます。
高乾院(秋田家の菩提寺)
高乾院 藩主秋田氏の廟所(江戸中期の和唐式中央宝形造りの御霊屋)
「三春」の地名の由来の由来ですが、この地の冬は寒さが厳しく、春の訪れはなかなか来ないらしいです。関西では2月中旬から「梅」が咲き、3月中旬に「桃」が咲き、3月末から4月初めに「桜」が開花しますが、「三春」は春が一気に来て「梅」「桃」「桜」が同時に咲き乱れることから命名されたそうです。素敵ですね!
職人横丁付近から三春城山を臨む
職人横丁の鍛冶屋(吉田鍛冶店)
本陣本店醤油店
三春町文化伝承館(一代で財を成した吉田誠次郎が明治28年に建てた自宅。母屋・蔵あり、母屋は数寄屋造り)
磐州通り(石畳通り)沿いの蔵
次回ブログでは、「二本松城」をお届けします。
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