私がかつて訪城した約25城の「模擬天守」を順次お届けしています。

 

今や市町村のシンボルであり市民権を得た状態で聳えているという理由で、「模擬天守」を採りあげています。そして「模擬天守」については以下の分類があると思います。

 

お城に「天守」があったものの、現在城域外のかなり違う場所に「天守」が建てられている場合

②お城に「天守」があったことが絵図や写真があるが、その絵図や写真とは全く違った形状の「天守」が建てられている場合

③お城に「天守」があったものの、「天守」の形が絵図や発掘物等何もなく判らない場合

④確かにその場所にお城が有ったと思われるものの、「天守」があったという史実が無い或いは確認されていない場合

⑤お城が有ったという史実が全く無い或いは確認されていない場合(今回のシリーズではこれは割愛します)

 

江戸時代に「藩庁」として使用された「お城」の支城のような位置づけのお城の「模擬天守」をお届けしています。本日は、「(伊賀)上野城」(三重県伊賀市)です。

 

模擬の大天守と小天守

 

「(伊賀)上野城」は、「豊臣政権」下で東の守りを固めるべく「筒井定次」が本格的な築城を行い三重の「天守」を建てました。

 

関ヶ原の戦い時には、「定次」は東軍で戦いましたが、その後失政によって排除され、今治から伊勢・伊賀国の領主となった「藤堂高虎」が、伊勢国の「(安濃)津城」を本城にしつつ、伊賀国のお城を支城という位置づけで改修しました。

 

「高虎」は、当初、「今治城」で開発した五層五階で層塔型無破風の「天守」を「伊賀上野城」の「天守」として据えようと考え、それを解体して伊賀国に向けて運びました。

 

「今治城」から「丹波亀山城(亀岡城)」へ移築されたと謂われている天守の古写真(これが、「伊賀上野城」へ移築されていたかも)

 

しかしその途中に、「徳川家康」から天下普請で「丹波亀山城(亀岡城)」を築城するように命令が出されたので、「伊賀上野城」の「天守」にしようとしていた資材全てを「丹波亀山城」に運び、そこで組み建てて「天守」を完成させたそうです。

 

ということで、既に五層五階の「天守」を据え付ける天守台を完成させていたので、新たに天守建築を進めました。しかしながら、台風の影響で建築中の「天守」は倒壊してしまい再建もしなかったので、結局は「伊賀上野城」は天守無しのお城となりました。

 

現在の「伊賀上野城」は、1935年(昭和10年)に地元の有力者「川上克」氏によって築城された「伊賀文化産業城」で、三層三階の層塔型、白漆喰総塗り込めで木造の「模擬天守」です。二層二階の「小天守」も模擬で築城されています。

 

模擬天守と小天守(東面)

模擬小天守

 

前述の「模擬天守」の分類では、台風で倒壊した五層五階の「天守」の姿は絵図等でも残っていないので③に相当するのでしょうか。

 

現在建つ「大天守」は、層塔式ながらも、唐破風や切妻破風を多数飾り付けて見栄えを良くしています。

 

また、「高虎」が建てようとした五層五階「天守」の天守台の上に建てられていますので、敷地の半分程しか使用せず、周囲を土塀で囲っています。

 

模擬大天守(多くの破風が付く、天守台の周囲を土塀で取り囲む)

模擬天守内(木造なのでお城の雰囲気が出ている)

模擬天守内(木造なのでお城の雰囲気が出ている)

階の天井には「横山大観」等の色紙が嵌め込まれている

旧筒井家時代の天守台から模擬大天守と小天守をのぞむ

 

次回ブログは、「洲本城」(兵庫県洲本市)の模擬天守をお届けします。

 

下記バナーのクリックをよろしくお願いいたします。


お城巡りランキング