私がかつて訪城した約25城の「模擬天守」を順次お届けしています。
今や市町村のシンボルであり市民権を得た状態で聳えているという理由で、「模擬天守」を採りあげています。そして「模擬天守」については以下の分類があると思います。
①お城に「天守」があったものの、現在城域外のかなり違う場所に「天守」が建てられている場合
②お城に「天守」があったことが絵図や写真があるが、その絵図や写真とは全く違った形状の「天守」が建てられている場合
③お城に「天守」があったものの、「天守」の形が絵図や発掘物等何もなく判らない場合
④確かにその場所にお城が有ったと思われるものの、「天守」があったという史実が無い或いは確認されていない場合
⑤お城が有ったという史実が全く無い或いは確認されていない場合(今回のシリーズではこれは割愛します)
前回から、江戸時代に「藩庁」として使用された「お城」の支城のような位置づけのお城の「模擬天守」をお届けしています。本日は、「涌谷(わくや)要害」(宮城県遠田郡涌谷町)です。
模擬天守と現存の櫓「太鼓堂」(南東側から)
まず「要害」とは、仙台藩において、1615年発令の「一国一城の令」後も幕府から認められた中世城郭のお城で21要害がありました。殆どの「要害」は、城館と大手門等で構成されていましたが、「涌谷要害」では1833年に隅櫓「太鼓堂」が建てられ、それは現存しています。
どの要害にも「天守」は配備されていないですが、「涌谷要害」では「太鼓堂」の横にわざわざ「模擬天守」が建てられています。前述の分類では、④に該当すると思われます。
南東側からの遠望
三重三階、望楼型、赤色の高欄・廻縁を付けた天守風建造物(模擬天守)は、1973年(昭和48年)に二の曲輪内に建造され、館内は、「涌谷伊達家」関連の資料館として使用されています。
模擬天守と櫓「太鼓堂」
三層三階の模擬天守(二の曲輪-北西側より)
模擬天守を見上げる(北西側より)
模擬天守正面(北側より)
「要害」となるまでは、この周辺を領有していた「大崎家」の家臣だった「涌谷家」が所有していましたが、「豊臣秀吉」の全国統一後は、「伊達家」の家臣「亘理(わたり)家」が居城します。そして、後には「伊達家」を名乗ることを許されます(涌谷伊達家)。
次回ブログは、「伊賀上野城」(三重県上野市)の模擬天守をお届けします。
下記バナーのクリックをよろしくお願いいたします。






