先日、非常に暑いさなか、「小野陣屋」と「三木城」(いずれも兵庫県)に参りました。

 

「一柳家陣屋跡遺跡」碑と「陣屋」跡に建つ「小野小学校」

 

阪急神戸線の特急で「新開地」まで行き、そこからは「神戸電鉄粟生行」の各駅停車でまず「小野駅」を目指しました。「神戸電鉄」は、近郊電車ながらも「鈴蘭駅」までは、あの「源義経」が急斜面を馬で駆け下りたことで有名な鵯越え(ひよどりごえ)がある「鵯駅」を通っていく山岳列車です。

 

 「神戸電鉄粟生行」(新開地駅)

 

更に「鈴蘭駅」からは「粟生線」に入りますが、途中何度も上り下りしながら走っていき。「新開地」から約1時間かけて「小野駅」に到着しました。

 

「小野陣屋」(兵庫県小野市)は、豊臣政権に従属した後に「関ヶ原の戦い」で東軍に参加して徳川政権下へ上手く移行した「一柳(ひとつやなぎ)直盛」の次男「直家」の家系が、元々伊予の「川之江陣屋」の分領の代官所であったこの地に陣屋を構えて居城したものです。

 

因みに、愛媛県西条市にある「小松陣屋」は三男「直頼」の家系が居城しました。

 

「一柳家陣屋跡遺跡」碑に掲出されている「陣屋図」

 

「陣屋」は、台地の先端に築かれ周囲は断崖絶壁となり、堀替わりとなる多くの池をその周囲に配置しています。

 

「陣屋」内には、「御西御殿」「御手丸御殿」「御隠御殿」を中心に、「蔵」「馬屋」「武庫」が配備され、一柳家の氏神「磐代神社」や「稲荷社」も設けられました。

 

また、その北側には「藩政評定所」が置かれ、その北側は「家老屋敷」や「藩士邸宅」が拡がっていました。その中に、藩校「帰正館」や「演武場」がありました。

 

一番番北側には、陣屋全体の「惣門」が脇に「番所」を伴い建っていたようです。そして、こちらから東側に向かって大手道が伸び、その先には「大手門」が置かれていたようです。

 

以上の様子は、「一柳家陣屋跡遺跡」碑の脇に立てられた陣屋解説碑に掲出されている「陣屋図」から読み取ることができました。

 

さて現在の陣屋跡を見ていきますと、神戸電鉄「小野駅」南側に降りますと、車のロータリーが階段下にあり、更に下っていく道がついています。その右手は駅と同レベルの高さで駐車場となっていますが、その右手下窪みにも道路と駐車場が造られています。

 

神戸電鉄「小野駅」南側ロータリーは、「堀」替わりだった「雁上池」を埋めて造られた

「堀」替わりだった「雁上池」を埋めて造られた道路

駅の西側、「堀」替わりだった「雁上池」を埋めて造られた道路と駐車場

 

地図で見ますと、ロータリーから窪み辺りには、堀替わりにしていた池3つの内最大の池が埋め立てられた跡でした。更に、南に向かって下る道沿いには2つの池が残っています。

 

「堀」替わりだった「雁中池」

「堀」替わりだった「雁下池」

 

駅からその堀(池)跡陸橋で渡った台地全体が「陣屋」跡で、現在は、「一柳家」氏神の「磐代神社」、小野市の歴史資料館である「好古館」が旧馬場や武庫跡に建ちます。

 

「一柳家」氏神の「磐代神社」(当初よりここに建つが、社殿は焼失後コンクリート造り)

小野市の歴史資料館である「好古館」

 

「好古館」の西側一帯が、「陣屋御殿」等が置かれていた敷地で、現在は「小野小学校」となっています。校門は「陣屋門」をイメージしたコンクリート造りで、校舎も陣屋跡をイメージさせた城郭風でデザインされていました。

 

「一柳家陣屋跡遺跡」碑

城郭風の校門

「陣屋御殿」跡付近に建つ城郭風の校舎

「神戸電鉄粟生線」踏切から見た陣屋跡

 

一旦、「堀」替わりの池がある南側へ降り、「陣屋」跡である台地を遠望してみましたが、木々に囲まれた森のように見えます。ぐるっと台地の際に沿った道を歩き、また北側に上っていく道の左側に大きな貯水池が現れますが、この池も「堀」替わりとして使用されたものであることが解ります。

 

陣屋がある台地(南側から)

「陣屋」がある台地の西側に掘られた「堀」堀替わりの「帆谷池」

 

「神戸電鉄」線路の下を潜った所に、「西小路」の道があり右手へ折れた一帯が「小野高校」の敷地となっていて、藩政時代には「藩士」達の邸宅が並んでいた所です。

 

「西小路」と南北に走る「広小路」とのT字交差点の所には「惣門」が建っていたそうで、突き当り右手の「広小路」の両脇には、東側の現在住宅地には「家老屋敷」が並び、西側の現在「小野高校校門」周辺には、藩校「帰正館」や「演武場」があった所です。

 

手前「西小路」と「広小路」交差点に「惣門」が建っていた

「広小路」(東側の住宅地には「家老屋敷」が並び、西側の「小野高校」は藩校が建っていた)

藩校「帰正館」や「演武場」があった「小野高校校門」周辺

 

「神戸電鉄の線路と小野高校の間辺りには「藩政時代の井戸」の遺構があったらしいのですが、探し当てることはできませんでした。

 

先ほどの「惣門」に戻り、鍵型の道路を東側に折れると「大手通」だったそうで、その先の現在「陣屋通り」商店街との交差点辺りに「大手門」があったそうですが、現在は何の表示もありませんでした。

 

大手通

「大手通」と「陣屋通り」の交差点辺りに「大手門」があった

 

「陣屋通り」商店街沿いには、古い商家がありましたが、当時のものかどうかは解りません。

 

旧家

 

当日は、非常に暑い日で、マスクしながらの「お城巡り」でしたので、マスクも汗でベタベタとなりましたが、久しぶりに訪れた「小野陣屋」をゆっくりと堪能できました。

 

次回ブログでは、この後に訪城した「三木城」をお届けします。

 

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