前回のブログで、「”現存三重櫓”を色々な方向から顔・姿を見る」を番外編含め、合計12基+1基で終了しました。

 

「現存三重櫓」(12基+1基)は、下記をクリックしてください。

https://ameblo.jp/highhillhide/theme-10112595030.html

 

しかし「三重櫓」は、現在でも「天守」にも勝るとも劣らず魅力的な建造物が、数多く存在しているのを見てきました。

 

江戸時代通じて、「三重櫓」を備えた「お城」は、今回紹介してきた「お城」の「三重櫓」以外にも存在していたけれども倒壊や焼失、撤去を余儀なくされたものがありましたし、今回「三重櫓」が現存していなかった「お城」でも多数の「三重櫓」が林立していた「お城」があったことについて、最初の「総編」でも記載しました。

 

特に「大坂城」は、「本丸」に11基の「三重櫓」を周囲を巡らせ、外郭にも三重の「伏見櫓」を備えて、つごう12基あったお話をしましたね。

 

この「三重櫓」群がどんな様相で建っていたか、非常に興味がそそられていましたが、先日、「新型コロナウイルス感染予防の外出自粛宣言」解除以降初めて登城した「大坂城」で、その写真が一般公開されているのを見ましたので、本日それを掲載したいと思います。

 

大阪城パンフレットの絵図に「三重櫓」の配置を赤丸で落とし込みました

 

一般公開されているのは、「大坂城本丸跡」東側に建つ年代を感じさせる建造物内です。こちらは、現在は「ミライザ」というレストランやお土産を扱う店舗が入居していますが、以前は「大阪市立美術館」であり、戦前までは陸軍「第四師団司令部庁舎」という厳めしい使途でした。

 

現「ミライザ」(前「大阪市立美術館」、旧「第四師団司令部庁舎」

 

「ミライザ」1階の南端の一角に、「大坂城」の歴史や写真が数多く展示されていて、自由に入場でき写真も自由に撮れる史料室です。

 

「ミライザ」内は旧建物内装を活かしてリニューアルされています(1階の奥右に史料室があります)

 

そこには、オーストリアの「エッゲンベルク城」に残る「豊臣時代の大坂の賑わい絵図」や、「徳川幕府再築の大坂城絵図」、「紀州御殿と大坂城」等の凄く興味をそそられる絵図や写真が並びます。

 

「エッゲンベルク城」に残る「豊臣時代の大坂の賑わい絵図」

「紀州御殿と大坂城」

「徳川幕府再築の大坂城絵図」

 

そして「大坂城」の幕末から維新時に撮影されたと思われる、「本丸」外周から撮られた「櫓」「多聞櫓」「門」「土塀」の古写真が繋げられて展示されています。これを見れば、当時の「大坂城本丸」の凄さが伝わってきます。

 

以前テレビ番組の「大坂城」特集で、奈良大学の「千田嘉博」先生が、徳川秀忠が「豊臣大坂城」の上に「徳川大坂城」を築いた理由の一つとして、「豊臣家」を埋没させて一新させる効果もあったが、それ以上に二代将軍だった「秀忠」は、「大坂城」に「幕府」を移そうとしていた計画があったのではとの説をおっしゃっていました。

 

というのも、「大坂城」の二の丸南側の石垣に防備をより固くしたことや、城郭建造物の格上げ(例えば大手門石垣の間に漆喰を詰めるとこ)を行うなどしたこと等で裏付けられるとのお話でしたが、これら「三重櫓」群も、建造した年度が「秀忠」時なのかは判りませんが、「大坂城」への「幕府移行」の準備だったかもしれないとの思いを巡らしました。

 

前回訪問した時には、軽く写真を撮っただけでしたが、今回は、この「三重櫓」特集を投稿していることもあって、一コマ一コマ(一つ一つ)の古写真の撮影をして持ち帰りました。

 

それでは、以下写真を桜門から時計と反対廻りで掲載します。

 

正面は桜門の高麗門と櫓門、左は鉄砲方預多聞

東南隅櫓(大番頭預櫓)

手前から馬印櫓、月見櫓、糒(ほしい)櫓

馬印櫓(具足方預櫓)

月見櫓(鉄砲方預櫓)

糒櫓(蔵方預櫓)

具足方預櫓(姫門桝形脇に建つ)

御成門之内櫓(弓方預櫓)

数寄屋前櫓(具足方預片菱櫓)

南西隅櫓(弓方預櫓)

西の一番櫓(鉄砲方預櫓)

伏見櫓(伏見城から移築された櫓で形が他の三重櫓と異なる)

 

帰宅してから気が付いたのですが、「本丸周囲11基」の内2基(南の手櫓、北の手櫓)の写真が漏れていました。

 

 

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