「伏見城」(京都府京都市伏見区)の遺構と謂われている城郭建造物が、各所へ移築して再利用されたり、その資材や部材を使用して建てられている建造物を写真で紹介.しています。第5弾です。

 

<第1弾 全国に残る「伏見城」の遺構巡りで空想を膨らまそう!>

https://ameblo.jp/highhillhide/entry-12584510946.html

<第2弾 全国に残る「伏見城」の遺構巡りで空想を膨らまそう!>

https://ameblo.jp/highhillhide/entry-12584961372.html

<第3弾 全国に残る「伏見城」の遺構巡りで空想を膨らまそう!>

https://ameblo.jp/highhillhide/entry-12586909048.html

<第4弾 全国に残る「伏見城」の遺構巡りで空想を膨らまそう!>

https://ameblo.jp/highhillhide/entry-12587173830.html#_=_

 

現存や伝説などの真偽は別にして、少しでも謂い伝えられているモノまでピックアップしていますが、桃山時代から江戸時代初期にかけて建てられた「伏見城」の姿を思い浮かべることができてワクワク感が募ります。

 

写真の中には、随分古い写真もありますことを御了承お願いいたします。

 

国宝西本願寺唐門」(京都府京都市下京区堀川通花屋町下る)は、「伏見城唐門」と謂われています。

 

 

桃山様式の豪華絢爛な金具や彫刻

桃山様式の豪華絢爛な金具や彫刻

 

この「唐門」は、檜皮葺で、前後唐破風造り側面入母屋造りの向唐門という立派な門です。屋根裏や門扉には、桃山様式の豪華絢爛な金具や彫刻が見られます。その彫刻細工を眺めていると日が暮れてしまうので「日暮門」とも言われています。

 

三代将軍「徳川家光」が1630年に、西本願寺に寄進したそうで、1632年に「良如上人」が現在の位置に移しました。

 

「伏見城」から移築されたモノは当門以外にも色々ありますので、下記で紹介します。

 

⑭「西本願寺書院」(京都府京都市下京区堀川通花屋町下る)は、「伏見城玄関と書院」と謂われていますが、俗説のようです。実際には「西本願寺」で建築されたようです。しかし、こちらで採り上げることで夢を追いたいと思います。

 

 

 

 

桃山時代から江戸時代初期の書院造りの代表作で、寛永年間(1624~45年)に整備が施されました。国宝「鴻の間(対面所)」は203畳敷きの大広間で、非常に豪華な書院造りとなっています。

 

 

重文「西本願寺能舞台」(京都府京都市下京区堀川通花屋町下る)は、「伏見城能舞台」と謂われていますが、こちらも真偽の程は不明です。

 

「能舞台」は二つあり、国宝「北能舞台」は最古の能舞台、重文「南能舞台」は現存する最大の能舞台だそうです。

 

国宝「北能舞台」

重文「南能舞台」

 

国宝「西本願寺飛雲閣」(京都府京都市下京区堀川通花屋町下る)は、「伏見城」の遺構ではありませんが、俗説として「聚楽第の建造物の一部」と謂われていて、こちらも真偽の程は不明です。

 

左右非対称の飛雲閣(特別拝観日は写真撮影禁止ですが、教徒観覧日では撮影できました

2階「歌仙の間」と3階「摘星楼」

「歌仙の間」に描かれた「三十六歌仙」

2階「歌仙の間」と3階「摘星楼」を裏側から見る

2階「歌仙の間」と3階「摘星楼」を裏側から見る

 

建物構造は、三層で中心がずれながら唐破風や入母屋屋根を配置していて、左右非対称の美を見せています。

 

1階の「舟入の間」へは池から出入りし、2階は「歌仙の間」と呼ばれて「三十六歌仙」が障子に描かれています。3階は「摘星楼」と呼ばれ、星がつかめるくらいに高いとの意味が込められています。

 

「金閣」「銀閣」と並ぶ「京の三閣」と呼ばれています。

 

次回ブログは、京都市上京区、右京区、北区に足を延ばします。

 

下記バナーのクリックをよろしくお願いいたします。

 


お城巡りランキング