前々回のブログの中で、京都市内にある「相国寺林光院」に移築された「仁正寺(西大路)陣屋」藩邸という内容で投稿しましたが、今回のブログでは、その仁正寺(西大路)陣屋(滋賀県蒲生郡日野町)について紹介します。
「相国寺林光院」(京都市上京区今出川通り)に移築された「仁正寺(西大路)陣屋」藩邸
「相国寺林光院」に移築された「仁正寺(西大路)陣屋」藩邸
「仁正寺(西大路)陣屋」へは、約8年前に訪問しました。この陣屋は、秀吉政権下で才能を発揮した「蒲生氏郷(うじさと)」の祖父が築城した「日野城」の敷地を一部使用した陣屋です。
「日野城」は、「蒲生氏郷」の時に伊勢国「松ケ島城」に移った後は、城代として「田中吉政」「長束正家」が入りましたが、関ケ原の戦い後に廃城となりました。
「蒲生氏郷」像(日野町上野田)
「日野城」に関するエピソードとしては、「本能寺の変」の時に、「蒲生賢秀」は落ちのびてきた「織田信長」の妻妾一族を当城に迎え入れたということです。
1620年にこの地域の統治を任された「市橋長政」が2万石で「仁正寺陣屋」を築き、その後は幕末・維新まで「市橋家」が統治します。幕末には「西大路陣屋」と名前を変更しています。
現在の「日野城」と「仁正寺(西大路)陣屋」の区切りがよく分かりませんが、「日野城」跡の一部がダムになっていたり、「涼橋神社」と「稲荷神社」の間の通路は、「堀切」のようにもなっています。また、小さな石を積み上げた「石垣」や、「水堀」「空堀」なども見ることができます。
陣屋跡側から「日野城」跡を見る
「日野城」跡付近が日野川ダムに
「日野城」跡の堀切(涼橋神社と稲荷神社の間の通路)
「日野城」跡に残る石垣
「日野城」の水堀
「仁正寺(西大路)陣屋」跡は、小公園となっていて「藩主市橋家邸」の文字が刻まれた碑が立っていることで陣屋跡だと判ります。また西側には「堀」であったような痕跡も残っています。
陣屋跡に立つ「藩主市橋家邸」碑
「藩主市橋家邸」碑
陣屋跡横の「堀」跡
「稲荷神社」(1701年に市橋家が陣屋の裏鬼門であった場所に建築)
「涼橋神社」(市橋家の氏神、1720年市橋家の庭園内に建築)
小公園の脇には、藩政時代の「蔵」が残されていますが、他にも城下にある寺院等に藩邸の一部を使用した本堂や門などが残ります。
現存「蔵」(藩邸敷地内)
1861年の藩邸新築の際に元の藩邸御殿の一部を移築したという市橋家の菩提寺「清源寺本堂」で、瓦にも市橋家家紋の「三盛菱」が掲げられています。また、境内には「市原家三代」の墓所もあります。
藩邸御殿の一部を移築した「清源寺本堂」
本堂の屋根には市橋家家紋の「三盛菱」
市橋家三代の墓(清源寺内)
その他「聖財寺本堂」「法雲寺本堂」にも藩邸御殿の一部が再利用されていたり、城下に設けられていた「東木戸門」は、「経王寺山門」として移築されています。
藩邸御殿の一部を移築した「聖財寺本堂」
藩邸御殿の一部を移築した「法雲寺本堂」
東木戸門(経王寺山門、棟門)
城下には、日野商人であった豪華な「山中兵右衛門宅」や「旧中山正吉邸」等を中心に、格子戸や桟敷窓を持つ町家が並んでいて、江戸時代の風情を感じることができました。
日野商人「山中兵右衛門宅」
日野商人「山中兵右衛門宅」内
「旧中山正吉邸」
桟敷窓がある町家
町家
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