「犬山城」(愛知県犬山市)の「中編」です。

 

国宝「犬山城」天守

 

前編 https://ameblo.jp/highhillhide/entry-12573621702.html

 

いよいよ「犬山城」への登城です。今回で5回目くらいでしょうか。しかし、約20数年ぶりの訪問です。

 

「犬山城」の城内には、国宝「天守」があるものの、他の城郭建造物は模擬や復興の櫓や門以外の現存城郭建造物はありません。だから、今回は曲輪ごとに櫓跡や門跡をかなり下調べしてきたので、じっくりと見たいと思いました。

 

縄張り絵図

 

城内見学の前に、少し城主やお城の歴史を予習しておきましょう。

 

「犬山城」の始まりは、古くは室町時代に遡るようで、「織田家」のお城でありましたが、戦国時代には、稲葉山城主だった「斎藤道三」との奪い合いがあったりしました。最終的には「織田信長」の叔父に当たる「織田信康」が入城して修築し、その後は「織田信清」「池田恒興」「中川定成」等の諸将が入城したようです。

 

江戸時代に入り、徳川家康の臣下である「平岩親吉」が初代藩主となりますが、その後「名古屋城」に御三家が設けられたことから、「尾張徳川家」の付家老「成瀬家」のお城となりました。

 

「犬山城」城主の「成瀬家」は、「尾張徳川家」の陪臣であり長年、将軍の直臣である大名になれるよう陳情がなされていたようですがそれは叶わず、明治新政府に替わってやっとのことで諸侯に列したのです。しかし、他藩の付家老と同様に1871年の廃藩置県で、大名としては数年間だけの在位になりました。

 

しかし特筆すべきことは、その他のお城では、藩主や城主であった各家は、明治時代になって早々と売却したり地元や役所等への寄付や贈呈を行いましたが、「犬山城」だけは、つい最近(2004年)まで、この天守閣を自費で旧お殿様であった「成瀬家」が所有されていました。その後は、財団法人を作って管理運営を任すようになりました。個人で、所有とは、かなり大変なことだったと思います。

 

最後の城主だった「成瀬正俊」氏の写真(天守内に掲出、2008年に逝去)

 

木曽川のほとり90m弱の丘に築かれた平山城で、その佇まいが中国長江流域の「白帝城」に類似していることから、江戸時代中期の儒学者「荻生徂徠(おぎうそらい)」が、「白帝城」と命名したと伝わっています。「荻生徂徠」は、「犬山城」を見上げて、余程感動したのでしょう。でも、当時は写真もなく、現地にも行っていないでしょうから、長江と白帝城の絵画から想像したのでしょうねー

 

白帝城と言われた犬山城

 

 それでは国宝「天守」へ向かいますが、そこまでの導線は迷ってしまいます。正面には、右側から「針綱神社」の鳥居、「三光稲荷神社」の赤い鳥居と社(やしろ)、そして「猿田彦神社」の社殿が並びます。この辺り一帯が「松の丸」跡で、ここには「松の丸御殿」が建っていたようです。

在りし日の城郭建造物(CGによる再現、案内図に掲出)

「松の丸」跡に建つ「針綱神社」の鳥居

 

「松の丸」跡に建つ「三光稲荷神社」の赤い鳥居と社(やしろ)、「猿田彦神社」の社殿(左端)

 

それぞれの神社の謂われは旧城主「織田信康」時代に狛犬を奉納したり、「成瀬家」時代には守護神として祀ったりと昔からそこに鎮座していたようです。

 

「猿田彦神社」左側の「大手道」を登ります。その登り口には「中門」があったそうですが特に遺構は見られず真っすぐ進んだ所に、北側から下ってきて東側に折れまがり「三光稲荷神社」の北側になりますが、大きな「空堀」が見られます。

 

「中門」跡付近

 

その「空堀」は、ちょうど「樅(もみ)の丸」跡を西側から南側にかけて取り巻くような防備となっていて、「樅の丸」南西端には「屏風櫓」台を見上げることができます。現在の「樅の丸」は外からは見えないようになっていて管理用の建物があるようです。

 

「空堀」跡(「樅の丸」の西側)

「空堀」跡(「樅の丸」(右側)の南側)

「樅の丸」下の南西隅の「空堀」跡

「樅の丸」南西隅にあった「屏風櫓」台

「樅の丸」跡は管理地となっていて入れない

 

「空堀」に沿った「大手道」は、「桐の丸」跡に向かって緩やかに上がります。その途中には「矢来門」跡、「松の丸門」跡が解説とともにあり、更に進むと突き当たりが「桐の丸」南西端の「道具櫓」台となりますが、現在はその上に「鉢綱神社」の社務所が建ちます。

 

左が「空堀」、突き当りが「桐の丸」南西隅の「道具櫓」台上に建つ社務所、手前に「矢来門」「松の丸門」各跡

「矢来門」跡

「松の丸門」跡(右に、「松の丸」跡」へ下りる石段あり)

「道具櫓」台の上に建つ「鉢綱神社」の社務所

 

「道具櫓」が監視していた「黒門」跡が真下にあり礎石が確認できます。その脇の石段を登った敷地全体が「桐の丸」跡で、現在は「鉢綱神社」の境内になっています。訪れた日はまだ正月松の内でしたので参拝客で賑わっていました。

 

「黒門」跡と右が「桐の丸」の「道具櫓」台

「黒門」跡の礎石

「桐の丸」跡に建つ「鉢綱神社」

「桐の丸」跡から「松の丸」跡へ下りる石段(この左手に「宗門櫓」があった)

 

「桐の丸」は、前述の「道具櫓」の他に「宗門櫓」が建っていた曲輪です。「宗門櫓」跡を確認しようと思いましたが、神社関係の建物に遮られ、また帰り際には「松の丸」跡から確認しようと思いましたが、他の建物が建っていて解らずじまいでした。

 

「鉢綱神社」から再び「大手道」に出ますと、長い急な石段「長坂」が始まりますが、丁度その右手には「御成櫓」台を見ることができます。

 

「大手道」の長坂(突き当りが「長坂門」)

「杉の丸」の南西隅の「御成櫓」台

 

この長坂を登り切った所に「長坂門」跡があります。その手前右手には「杉の丸」跡の広場が拡がります。ここの東側には「多聞櫓」と東南隅に「器械櫓」が有ったそうですが、中には入れませんので遠方より眺めるだけでした。

 

「長坂門」跡(奥に復興「本丸鉄門」が見える)

「杉の丸」跡(白い建物付近に「器械櫓」が建っていた)

「杉の丸」南面の石垣でこの右手辺りに「器械櫓」が建っていた(「鉢綱神社」社殿裏より)

 

さて、「長坂門」跡と復興「本丸鉄門」の間は大きな桝形となっているようで、「長坂門」脇には「小銃櫓」が睨みを効かせていました。現在の「小銃櫓」台の上には櫓風の茶室が建っていて一般開放されています。

 

「長坂門」跡と復興「本丸鉄門」の間にある「鏡石」

「長坂門」跡

 

「小銃櫓」台(現在上には、櫓風の茶室が建つ)

「小銃櫓」台(現在上には、櫓風の茶室が建つ)

 

いよいよ復興「本丸鉄門」を潜ると「本丸」跡です。左の階段を少し上ると、右前には国宝「天守」が眼の前に飛び込んできます。昨年来リニューアルが進められてきて囲いが取れた姿を新年早々拝むことができて満足!でした。というより、囲いが取れるのを待って来城したというのが本音です。

 

復興「本丸鉄門」

復興「本丸鉄門」(「本丸」跡内より)

国宝「天守」

 

国宝「天守」を詳細に見る前に、「本丸」跡をぐるっと先に廻ります。「本丸」跡にも幾つかの櫓や門がありました。左手前の南西隅には「弓矢櫓」跡が残り、その土手沿いの北西端下には「千貫櫓」が建っていましたが、「天守」西側には入ることができず櫓台の確認ができませんでした。

「弓矢櫓」台

 

「千貫櫓」は、天守左下にあった

 

次に北東隅には、「七曲門」跡があります。こちらは、「櫓門」であったらしく石垣もしっかりと残っていて、こちらから麓へ折れ曲がりの七曲道を下って「水の手門」まで通じていたそうですが、現在は通行止めとなっています。

 

「七曲門」跡(「本丸」跡側より)

「七曲門」跡(下段から)

 

古写真で城山東面に建つ「丑寅櫓」や「水の手櫓」が写っていますが、この「七曲門」跡の下にあったのだと思うと、その櫓台跡を見たかったなーと残念に思いました。現在では、通行止めなので見る手立てはないのでしょう。

 

「七曲門」跡から土手上の「多門櫓」跡沿いに南下した所には「大砲櫓」台が残ります。「本丸鉄門」横の城郭建築風のトイレ脇にあるので少し見づらいですが、結構な敷地でしたので名前の通り大きな櫓だったのかもしれません。

 

「多門櫓」跡

「大砲櫓」跡

「大砲櫓」台(「杉の丸」跡方向から)

 

以上、「二の丸」跡の一部に当たる「松の丸」跡から「本丸」跡までの「櫓」「門」の各跡と復興・模擬の各々を見てきました。

 

次のブログでは、国宝「天守」に迫っていきたいと思います。

 

 

 

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