本日の「お城紀行」は、一昨日の続きで「屋嶋城」から「高松城」(香川県高松市玉藻町)へ向かいます。

 

海水に浮かぶ「月見(着見)櫓」、付櫓、水手御門など

 

「高松城」の歴史と城主についてですが、四国平定した「豊臣秀吉」が1587年に「生駒親正」に讃岐国を与えたことに始まります。

 

当初「引田城」等を居城としていましたが手狭で領地においては東に寄りすぎている等から高松に新城を築城し1590年に完成しました。

 

関ヶ原の戦では、息子の「一正(かずまさ)」が徳川方に従ったので「生駒家」は存続が許されますが、四代目の「高俊」の時にお家騒動「生駒騒動」を起こし転封となります。

 

その後1642年に入城したのが、「徳川家康」の十一男「徳川頼房」の長男で「(水戸)徳川光圀」の兄である「松平頼重」で、入城して1670年には大改修を行っています。

 

しかし本家水戸藩を継いだ「光圀」は、兄の「頼重」を差し置いて水戸藩主になったことに凄く憂いを持っていたので、水戸藩の三代藩主には、「頼重」の息子である「綱條(つなえだ)」を「高松藩」から呼び戻し、一方、「光圀」の息子である「頼常(よりつね)」を高松藩主にする、たすき掛け人事を行いました。

 

その後「高松城」には、光圀系の藩主に替わりますが、江戸時代通じて「水戸藩」の支藩的な位置付で徳川家の「家門」として格式の高いお城でした。

 

 

さて、「琴電屋島駅」から乗った「志度線」の二両の列車は「瓦町」止まりなので、乗り換えて「高松築港駅」に到着しました。琴電の「高松築港駅」は、「高松城」の「二の丸」と「本丸」各跡の石垣と内濠に併設されていますので、駅構内からの写真をふんだんに撮ることができます。

 

特に、「本丸」の「地久(ちきゅう)櫓」と「矩(かねの)櫓」、「二の丸」の「文(ふみ)櫓」の櫓台が城外からも良く解る絶好のポイントです。また、「内濠」に美しく浮かぶ廊下橋の「鞘(さや)橋」も、真横から写真撮影ができました。

 

本丸「地久櫓」台

本丸「矩櫓」台

二の丸「文櫓」台

 

廊下橋の復元「鞘橋」と内濠

 

入城は、「高松城」の正門である「黒鉄(くろがね)門」跡からになりますが、「黒鉄門」は、「二の丸」から「三の丸」へ入る箇所にも同名でもう一箇所あって、そちらの方が立派な石垣が積まれています。

 

本丸「黒鉄門」跡

本丸「黒鉄門」跡

 

 

入城してすぐ左手に雁木と「廉(れん)櫓」跡の櫓台が見られます。屋島へ行く前に外から撮った写真の方が櫓台と良く解ります。

 

本丸「廉櫓」台(外側からの写真)

 

先に「三の丸」跡に向かうべく「二の丸」跡の北側を横断して北東隅にある「武(たけ)櫓」跡を左に見ながら、前述した櫓門「黒鉄(くろがね)門」の大きな櫓台の間を通って「三の丸」跡に入ります。

 

二の丸跡

 

「武櫓」台(外側からの写真)

三の丸跡の入口に構える「黒鉄門」跡

「黒鉄門」櫓台と鏡石

 

「三の丸」跡入口にあるのが、当城の特徴でもある「水門」跡です。この門は、当時「二の丸」「三の丸」北側が海であり、海水を城内の濠に取り込む為の取水口となっていました。

 

水門跡

水門跡

 

現在は、埋め立て工事で城北側を走る国道下に通された水路で海と水門が繋がっているので、「内堀」の中へ稚魚が入り込み成長したタイ等の海水魚が泳いでいる姿がみられるそうです。

 

海側(外側)の水門跡

 

また「水門」の外側では、満潮時に海水が流れ込んでくる光景を見ることができます。たまたまでしたが、城内一周後に再度、北側から「月見(着見)櫓」等を見に行った時が満潮時だったのでしょうか、みるみる内に海水が湧き出てくる光景を見ることができ、また「月見(着見)櫓」とともに併設する「続櫓」「水の手門」「渡櫓」前が海水で満たされている光景は感動モノでした。

 

「月見(着見)櫓」と櫓群・水手御門前に海水が流れ込んできた

水手御門前に海水が流れ込んできた

二の丸跡石垣前に海水が流れ込んできている様子

 

「三の丸」跡には、「披雲閣(ひうんかく)」という御殿建造物が建ちます。これは、江戸時代に、藩庁と藩主住居として建てられましたが、明治時代になって老朽化で取り壊されました。

 

しかしながら、1917年に貴族院議長を務めた12代当主「松平頼壽(よりなが)」が「三の丸」跡に建築して、純和風建築の「大書院」は142畳もの広さがあり「槇の間」や「蘇鉄の間」等も備え、現在は茶会や生花会場等に開放されています。

 

披雲閣」車寄せと玄関

披雲閣」

披雲閣」

披雲閣」

披雲閣」大書院前の大手水鉢

 

これらの建物前に拡がる「披雲閣庭園」も、「頼壽」が「披雲閣」を建築した際に、江戸時代の「三の丸御殿」の庭園を一部生かして造られた庭だそうです。

 

披雲閣庭園」

披雲閣庭園」

披雲閣蘇鉄の間」の蘇鉄

 

「披雲閣」の北側にある簡単な門から出た所が「北の丸」跡で、現存で重要文化財に指定されている「月見(着見)櫓」「続櫓」「水手御門」「渡櫓」が繋がっています。

 

城内からの「月見(着見)櫓」「続櫓」(重文)

 

城内からの「水手御門」(重文)

城内からの手前から「続櫓」「水手御門」「渡櫓」(重文)

 

今まで写真で観ることが多かったこれらの建造物を、間近で見ることでその大きさに圧倒されました。

 

「月見(着見)櫓」は、「総塗籠造り」の三重三階、軒垂木(のきたるき)全てを塗り込めた「大壁造り」、壁面上下に「内法長押(うちのりなげし)」と「腰長押(こしなげし)」を二引両として装飾しています。

 

また、東西には、「切妻破風」と「唐破風」も備えています。凄い上質さと品格を醸し出している櫓で、私が好きな櫓NO1です。

 

城外からの「月見(着見)櫓」「続櫓」「水手御門」「渡櫓」(重文)

城外からの「月見(着見)櫓」「続櫓」「水手御門」「渡櫓」(重文)

城外からの「月見(着見)櫓」(東面)

「月見(着見)櫓」(重文)の唐破風と切妻入口(城内からの東面)

城外からの左から「続櫓」「水手御門」「渡櫓」(重文)

城外からの「続櫓」「水手御門」(重文)

城外からの「水手御門」「渡櫓」(重文)

 

「北の丸」の隅櫓で、西側に建っていた「鹿櫓」とともに、海上からの往来する船を監視する役割を持っていたそうです。

 

「鹿櫓」台

 

「水手御門」は、名前の通り海上から船で着いた時にこの前の雁木前に舟を付けて城内に入る門だったようです。「水手御門」の遺構は珍しいです。

 

城外からの「水手御門」(重文)

 

次回ブログは、「三の丸」跡と「桜馬場」跡を繋ぐ「桜門」から始めたいと思います。

 

 

 

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