本日は、年末12月12日に「八上城」とともに訪城した「篠山城①」(兵庫県丹波篠山市を投稿します。(※八上城は既に投稿済みです)

 

レンタサイクルで「八上城」麓まで向かい登城して下山したあとも引き続きレンタサイクルを使用して「篠山城下」を回遊しました。

 

伝統的建造物群保存地区の「河原町妻入商家群」、お城の南側から西側にかけては武家屋敷の並びと「御徒士町武家屋敷群」を見学しながら、お城に近づいていきました。

 

伝統的建造物群保存地区の「河原町妻入商家群」は、後篇のブログで紹介したいと思います。

 

まず最初に、歴史と城主についてお話をしておきたいと思います。

 

この地には、近くに「八上城」があり、1608年に「松平(松井)重康」が入城しましたが、当時、「大坂城」の城主だった「豊臣秀頼」を牽制する為に、「徳川家康」が天下普請で「篠山城」築城を命じて「重康」が入城しました。

 

それに伴って、城下にも「八上」から町家などを移させて城下町を形成しました。

 

「豊臣家」が滅んだ1615年に、「松平(藤井)信吉」が入り、以後「松平(形原)家」、「青山家」と譜代大名のお城となります。「青山家」は1748年から城主となって、約120年間統治して幕末・維新まで続きます。

 

 

それでは、「篠山城」の主郭部分への見学ルートは、「南堀」の南東隅からスタートして西に向かい、武家屋敷跡を通って進んでいきます。

 

南東隅から「南外堀」越しに、「本丸跡」の中にある「天守台」が見られます。この「南外堀」沿いに西に進む途中には「武家屋敷」だったと思われる屋敷が並びます。

 

南外堀の東南隅から本丸天守台を見上げる 

南外堀(西方向)

小南家170石の長屋門 

南外堀の南側に建つ武家屋敷

 

この屋敷の向こうに現われるのが、近世城郭ではなかなか現存しない「南馬出」が周囲の堀に囲われて残ります。

 

「南馬出」とその周囲を取り巻く堀

「南馬出」の西南端と堀

 

「南馬出」の内部は、結構広い敷地面積で、周囲は高い土塁で囲われています。最後に見学する「東馬出」はかなり手が加えられた感じですが、こちらは当時のまま残された感じがします。

 

南馬出の土塁(内側) 

南馬出の土塁(内側) 

 

「南馬出」の堀越しにも武家屋敷が見られますし、その近くには藩校「振徳堂」跡があります。これは、九代藩主青山忠朝の時に開校され、その精神は県立鳳鳴高校に受け継がれていると言われています。

 

藩校「振徳堂」跡

藩校「振徳堂」の平面図

 

お城の「西外堀」の西側に拡がる「御徒士町武家屋敷群」は、武士の中でも、戦いになれば馬に乗ることが許されていない身分の武士達で平時は役人としてお城勤めをする武士達が居住した屋敷群です。

 

「御徒士町武家屋敷群」入口付近

 

土塀と棟門の中に茅葺入母屋造の主屋の建物が特徴で、特に「安間(あんま)家」は史料館を兼ねているので中を見ることができます。昔の下級武士の生活が偲ばれます。また、「外西堀」沿いには、17世紀初めころに建てられた「小林家長屋門」も立派な門です。

 

御徒士町武家屋敷群の「安間(あんま)家」棟門と主屋

 

御徒士町武家屋敷群の「安間(あんま)家」主屋

御徒士町武家屋敷群の「安間(あんま)家」主屋

御徒士町武家屋敷群の「安間(あんま)家」主屋

御徒士町武家屋敷群の「安間(あんま)家」主屋

御徒士町武家屋敷群の邸

御徒士町武家屋敷群の邸

西外堀(南方向)

御徒士町武家屋敷群の「小林家長屋門」

 

この通りを北上して「北外堀」沿いには、「青山歴史村」の館があって、最後の藩主家であった「青山家」の明治時代の別邸「桂園舎」を中心に土蔵や藩士だった「澤井家長屋門」が移築されていますが、丁度修築中で中を見ることができませんでした。

 

「澤井家長屋門」

 

この「青山歴史村」の敷地には、「八上城」のブログで紹介した「八上城城門」の遺構と明治時代初めの「篠山藩」庁舎の遺構「旧篠山藩地方役所門」も移築されています。

 

「八上城城門」の遺構

「旧篠山藩地方役所門」

 

次は、主郭である「本丸」跡と「二の丸」跡について「篠山城②」をご覧ください。

 

 

 

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