前回ブログは、26日に訪問した「坂本城」でした。今日のブログは「坂本城」の後に京阪石山坂本線の「膳所本町駅」で下車して「膳所城」(滋賀県大津市)に向かいます。

 

駅から真っすぐ東へ進んだ突き当りに「膳所城跡公園」があり、その正面には模擬ですが立派な「高麗門形式」の門と両脇には土塀が築かれています。

 

膳所城跡公園の模擬門(高麗門)

膳所城跡公園の模擬門(高麗門)

膳所城跡公園の模擬門両脇の土塀

 

門を潜ると、正面にはこんもりとした台地上に「膳所城跡」碑が立ちます。これに刻まれた文字は、最後の城主(藩主)であった「本多康穣(やすしげ)」の甥「本多亀男」という方の揮毫だそうです。

 

「膳所城跡」碑

 

「膳所城」の歴史と城主に付いて触れておきます。

 

歴代「城主」は、譜代大名が統治していて、1601年に築城して入城したのが「戸田一西(かずあき)」で、その息子「氏鉄(うじかね)」が二代目です。「戸田氏鉄」といえば、「大垣城」の前で馬に跨る銅像が思い浮かびます。

 

その後は、徳川四天王と謂われた「酒井忠次」の次男として生まれ、1580年には「織田信長」の下に人質として入った時期に「本多家」の養子として入った「本多康俊」が入城します。そして「菅沼家」「石川家」と城主が変遷して、1651年に再度「本多家」が入城すると、幕末・維新迄を当家が統治を続けます。

 

「膳所城」は、関ケ原の戦い後の1601年に、来る「大坂方(豊臣方)」と一戦があるだろうとの思いを持つ「徳川家康」の命による「天下普請」で、東海道を抑え、琵琶湖の水路も抑えることができるこの琵琶湖湖畔の場所に、「藤堂高虎」を使って「水城」を築城させました。

 

当初の縄張りは、「本丸」と「二の丸」が琵琶湖内に突き出た島状に配置され、いずれも周囲は琵琶湖面に囲われ、両曲輪は廊下橋で行き来できるようになっていました。

 

「本丸」には、四重四階の総塗込めで入母屋破風以外の破風がない「天守」を建て、周囲を「三重櫓」などの櫓や、「二の丸」及び南側に出っ張る「三の丸」との出入口には各々「枡形」を伴う「鉄門」「本丸門」を置き、更に「二の丸」から西側の南北に構える「三の丸」に出る箇所には「馬出」を設ける等、非常に堅固な造りだったようです。

 

「本丸跡」(現 膳所城跡公園、南側からの遠望)

 

現在、「膳所城跡公園」内の北東隅に「天守閣跡」碑が立ちますが、「天守台」もなく場所を示すだけの標識となっています。

 

「天守閣跡」碑

 

公園からは何ケ所かの石段が設けられていて、湖岸沿いに降りることができます。湖岸沿いには、そんなに高くない石垣が築かれていて、「本丸跡」の北側には「井戸」跡が、南側には曲線を描く「雁木」が繋がり「舟入場」のような感じになっています。

 

膳所城跡公園から湖岸に下りる石段と石垣

湖岸沿いの石垣

本丸跡から北の丸跡方向

湖岸にある井戸跡

湖岸に沿って曲線の雁木(舟入場跡か)

湖岸の石垣と雁木

 

湖岸には、お城の石垣の一部であったような大きな石が、水面から顔を出して無造作に並んでいます。

 

湖水に沈む石

湖水に沈む石

 

1662年の大地震によって、「本丸」内の三重櫓などが崩壊し湖面に浮かぶ敷地にも大きなダメージがあったことから、「本丸」と「二の丸」を繋ぐ一体化修築工事が行われました。これによって、元々「三の丸」で東側に出っ張った敷地を「二の丸」と呼称変更して「二の丸御殿」もそこに建てられました。

 

1662年以降の縄張り(左が北、右が南)

 

現在、新「二の丸」跡の北側には、平櫓風の「浄水施設」が建っていて城内に馴染むような工夫がされています。その北側は、石垣が陸側に入り込む「堀」で、そこには「本丸」と「二の丸」を繋ぐ「廊下橋」があった場所だと思います。

 

平櫓風の「浄水施設」

平櫓風の「浄水施設」(二の丸跡の北端部分で堀が入り込んでいる)

平櫓風の「浄水施設」がある二の丸跡から本丸跡をのぞむ

二の丸跡から東側へ出張る三の丸跡方向

 

新「二の丸」跡から、南北に長い長方形の敷地であった「三の丸」跡をウオーキングしました。

 

城下町 膳所案内絵図(赤い旧東海道沿いを歩く)

 

「本丸町」という町名やバス停がある所から南に向かった場所に「御殿浜」という地名があり、そこは、江戸時代に「城主(藩主)」の隠居御殿「浜御殿」があった場所で、近くにある「本多神社」内には、「御殿庭」の一部が残されています。今回は時間の都合でパスしました。

 

「本丸町」の地名

「御殿浜」跡碑

 

「御殿浜」からは、旧「東海道」沿いに「膳所城」の遺構を見て歩きながら「膳所本町駅」を目指しました。

 

まず最初に、「三の丸」跡の南端となる「勢多口(せたくち)総門跡」碑を確認しました。以前訪問した際には、この碑の後ろには「総門番所」の現存城郭建造物が建っていましたが、既にそれは無くなり新築の民家となっていました。「番所」はどこかに移築保存されていたら良いのですが、帰宅してネットで探しましたが見つからないので残念です。

 

「勢多口(せたくち)総門跡」碑

以前は、「勢多口(せたくち)総門跡」碑の後ろには、「勢多口番所」が現存していた

 

勢多口(せたくち)総門」については、現在は大阪府泉大津市にある「細見邸」に移築現存していますが、非常に立派な門です。下に写真を貼り付けました。

 

京都市内岡崎で「細見美術館」をされている財団法人が所有の城門(大阪府泉大津市、高麗門形式)

 

京阪石山坂本線の線路がクネクネと曲がる間を歩き、「膳所城門」であった「若宮八幡宮」表門、「篠津神社」表門を写真に納めて進みます。

どちらも「高麗門形式」の立派な門で、「若宮八幡宮」の方は市指定文化財、「篠津神社」の方が重要文化財に指定されています。

 

「若宮八幡宮」表門に移築された城門(高麗門形式、犬走門)

門の瓦には本多家の家紋「立ち葵」

「篠津神社」表門に移築された「城門」(高麗門形式、重文)

「篠津神社」表門に移築された「城門」(高麗門形式、重文)

 

「膳所本町駅」手前まで戻りますと「膳所神社」がありますが、こちらには3つの城門の遺構があります。「神社北門」は「薬医門形式」、「神社表門」は「高麗門形式」の立派で堅固な城門で共に重要文化財です。また「神社南門」も移築現存した「高麗門形式」です。

 

「膳所神社」北門に移築された城門(薬医門形式、重文)

「膳所神社」表門に移築された城門(高麗門形式、重文)

「膳所神社」南門に移築された城門(高麗門形式)

 

駅前には、滋賀県内一番の進学校「膳所高校」がありますが、藩校「遵義堂(じゅんぎどう)」跡に建ちます。この「藩校門」は、「和田神社」に移築されています。

 

藩校「遵義堂(じゅんぎどう)」跡に建つ「膳所高校」

 

このように、今挙げただけでも城下内には6箇所の移築門があり、少し離れた場所への移築した城郭建造物は「櫓」も含めて倍以上の移築建造物があるという、全国でも最大級の移築物数を誇るお城です。これらを見て回ることで、江戸時代の「膳所城」の姿を思い描くことができて、非常にワクワクするお城だと思います。

 

帰宅途中に乗車した電車についてトピックスがありますので、次回ブログにて紹介します。

 

 

 

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