本日の「譜代大名のお城シリーズ」は、昨年3月に違うテーマで投稿した「唐津城」(佐賀県唐津市)を複製して拡大リニュールしました。

 

模擬天守(昭和41年築)

 

「唐津城」の歴史と城主についてですが、関ケ原の戦いの戦功によって、肥後天草を加増された「寺沢広高」によって築かれます。「豊臣秀吉」に命じられて朝鮮出兵の前線基地である「名護屋城」の普請奉行に任じられたこともあり、「名護屋城」廃城後の資材類を再利用して築城しました。

 

しかし、1637年に「島原の乱」に呼応した自領天草の農民が一揆を起こしたことから二代目「寺沢堅高」は、肥後天草を没収されてしまい、責任を感じて自害までしてしまいます。

 

そして一時「天領」となりますが、1649年に「大久保忠職(ただもと)」が8万石で入城し、その後は「松平(大給)家」「土井家」「水野家」と変遷して1817年にやっと「小笠原家」に城主が固定して幕末・維新を迎えます。

 

その中で「水野忠邦」は、自分自身が幕閣の一員として幕府の運営に関わるべく「老中」に成りたいとの野望がありました。そこで、出世しやすい「浜松城主(藩主)」に移封できるように色々と働きかけをしたそうです。

 

当時「唐津城主(藩主)」は、長崎に近くて「長崎奉行所」との連携で業務を行っていたので役得が多く、石高以上の収入があったので、家老達は「浜松城」への移封に反対していたのですが、本人のたっての希望という出世欲で実現しました。そして、その後「水野忠邦」は、「筆頭老中」まで昇りつめて「天保の改革」を推し進めました。

 

 

さて、その「唐津城」の縄張りですが、「松浦川」の河口で唐津湾に突き出た高さ40mの「満島(みつしま)山」に「本丸」を置き、その西側に「二の丸」を配備し、「二の門堀」で区切った西側には「三の丸」を並べるという「連郭式平山城」のお城でした。 

 

町田川の奥に「二の門堀」 

 

「本丸」には立派な天守台を造り、そこへ「名護屋城」の五重「天守」を移築したかった「寺沢広高」でしたが、幕府に遠慮して中止したらしいです。「天守台」を造ったものの、その後に「天守」が上げられたかというのは史料にも記述なく判らないとのことです。

 

「本丸」の南側を防備するような位置に配備されている「二の曲輪」は、「二の丸御殿」との境にある「坂口門」から石段を登りきった所にある曲輪で枡形虎口の堅固な石垣を持つ「総締門」入口となっています。そこを通り、「本丸櫓門」を潜ると「本丸」に行き着きます。

 

二の曲輪の出入口「総締門」の虎口

本丸の入口模擬「本丸櫓門」

本丸の出口模擬「本丸櫓門」(本丸跡内から)

 

現在「本丸」には、立派な「天守」が建っていて、こちらは全くの「模擬天守」ということですが、外観は「名護屋城」の絵図に基づいて造られているそうです。

 

「満島山」頂上に五重の「模擬天守」が聳えていますので、唐津市街の各所から天守が見えて、唐津市民のシンボルともなっているようです。

 

「模擬天守」に繋がる櫓は「化粧櫓」で、もう一つ大きな「亀頭櫓」は再築していません。

 

「名護屋城天守」らしく建てられたという「模擬天守」

模擬天守(東面)

名護屋城 「肥前名古屋城図屏風」(名古屋城博物館内)の右上に天守が見られる

復興化粧櫓

模擬天守から見下ろす「化粧櫓」、海が見えます

唐津城天守から見る 「虹の松原」(1593年「寺沢広高」が防風の為に植える)

 

「本丸」西側の山麓には「城主」の居住する「二の丸御殿」が置かれ、「二の丸」には政務を執る藩庁の「御殿」や侍屋敷が並んでいました。現在は、「早稲田佐賀中学校・高校」の敷地なっていますが、北側沿いに「二の丸」跡の石垣が続きます。

 

北側沿いに「二の丸」跡の石垣

武家屋敷門(現 水野旅館の門)

 

「三の丸」の面積はかなりの大きさを持ち、北西側には「西の門」、南西側には「大手門」が、それぞれ虎口を伴う門で警固していました。「唐津城廻絵図」を見ますと、「三の丸」の周囲の堀沿いには多くの櫓が建ち並んでいました。

 

大手門跡付近

 

現在は、「大名小路」「北城内」「南城内」「西城内」等の町名が残り、「北城内」には海岸へ出入りできた「埋門」跡の石垣を見ることができます。また、「大名小路」には「三の丸辰巳櫓」が「平櫓」で再築されていますが絵図では二層でした。

 

埋門跡石垣

復興「三の丸辰巳櫓」

復興「三の丸辰巳櫓」

柳堀沿いの石垣

 

また、「西城内」にある「唐津市役所」の南側には、一部残る「肥後堀」沿いに「三の丸石垣」や「櫓台」を見ることができます。この東端には、模擬「平櫓」が建ちトイレに利用されています。

 

三の丸石垣と肥後堀

模擬平櫓(トイレに使用)

市役所南側の櫓台

 

前述した「大手門」の南側には「外曲輪」が拡がり、寺町や商家が建ち並んでいました。

 

特に、「近松(きんしょうじ)寺」は、山門に「名護屋城」の城門が移築されたり、裏の庭園内には、「名護屋城」内で使用していた「豊臣秀吉」の馬用の「太閤馬盥」が移設されています。

 

近松寺山門(旧 名護屋城城門)

太閤馬盥(名護屋城で使用されていたもの)

 

更には、藩主「小笠原家」の茶室「拈華庵(ねんげあん)」が再興されています。お寺の名前にもなっている近松門左衛門」の墓や、旧藩主「寺沢家」「小笠家「松平家」の墓も並びます。

 

藩主「小笠原家」の茶室「拈華庵(ねんげあん)」

近松門左衛門の墓

寺沢家の墓

小笠原家の墓

松平家の墓

 

唐津藩「藩校中門」も近くに現存していて、門の表には「小笠原家家紋」が付き、裏側には「水野家家紋」がついています。

 

藩校の唐門

 

 

 

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