譜代大名のお城シリーズ、本日は「丹後田辺城」(京都府舞鶴市)です。

 

復興大手門の櫓門と模擬隅櫓(奥)

 

「田辺城」の歴史は古く、1392年に「一色家」が丹後守護となって「守護所」を置いたことが始まりとのことです。

 

そして「一色家」は、「織田信長」の勢力拡大に際して良好な関係を結びましたが、中国地方の「毛利家」に対抗する為には、当地を「信長」の傘下に組み入れておく必要があったので、「明智光秀」に命じて「細川藤孝」に「一色家」を攻めさせ、その後は「藤孝」に統治を任せました。

 

「藤孝」は、当初「宮津城」を築き居城しましたが、1580年に京都に近い「田辺城」を築城しました。「藤孝」の息子「忠興」は、「明智光秀」の娘を妻としていたので、本能寺の変後は、「藤孝」が隠居して「忠興」が家督相続しました。

 

関ケ原の戦い時には、「忠興」は東軍に参加し、「藤孝」は「田辺城」に籠城して西軍の大軍を迎え撃って50日以上持ちこたえました。

 

その後、「細川家」は豊前「中津城」へ転封となり、「京極高知(たかとも)」が入城しますが逝去したので、丹後は「高知」の3兄弟で分割し、「高極高三(たかみつ)」が入城します。

 

1668年に、「京極家」が移封になり、その後に入城したのが「牧野親成(ちかしげ)」で、それ以降は10代続いて幕末・維新を迎えます。

 

「田辺城」は、北側は「舞鶴湾」で、東西には川が流れているので天然の要害としての「水堀」となっていました。

 

「本丸」を中心に、「二の丸」と「三の丸」が取巻く「輪郭式」の縄張りとなっています。

 

縄張り絵図(上が北側)

 

「本丸」と「二の丸」を繋ぐのが「鉄門」、「二の丸」の南側で「三の丸」との出入口が「南門」、「二の丸」の北側で「三の丸」との出入口が「中門」、「三の丸」から西側への出入口には「大手門」が、北側には「船附御門」が、更には「三の丸」の南東側には「大内門」が置かれ、厳重な守りとなっていました。

 

赤が本丸、ピンクが二の丸、黄色が三の丸、左が北側で右は舞鶴駅

 

「本丸」は周囲を「本丸堀」で囲まれていて「天守台」が置かれていましたが、実際には「天守」が建ったのかどうかは不明です。

 

野面積みの天守台

 

現在は、「本丸」跡と「二の丸」跡が「舞鶴公園」として整備されていて、「本丸」跡の南西隅に「野面積み」の「天守台」が残るとともに、「本丸の石垣」も残ります。

 

模擬隅櫓(彰古館)から本丸をのぞむ(現 舞鶴公園)

本丸に残る石垣

 

「舞鶴公園」の北側には、1940年に建てられた「模擬隅櫓と付櫓」が建ちます。「彰古館(しょうこかん)」と命名され資料館として利用されています。

模擬隅櫓と付櫓(昭和15年築、現在「彰古館」

模擬隅櫓と付櫓(昭和15年築、現在彰古館、手前は堀だった)

 

また、1992年には「復興大手門」が「櫓門」形式で建てられて二階は資料館として使用され、その前後には新たに土塀が建てられました。

 

復興大手門、櫓門(平成4年築、現在史料館) 

復興大手門

 

「二の丸」跡にも石垣や土塁の一部が残りますが、他にも「二の丸」御殿の庭園であった「心種(しんじゅ)園」が拡がり、小島が浮かぶ池や、「古今伝授の松」が残ります。

 

二の丸東側の石垣

二の丸の土塁跡

二の丸心種園(藩主御殿の庭)

 

「古今伝授の松」の前には「古今伝授の碑」も一緒に立ちます。

これは、「細川藤孝(幽斎)」が「古今和歌集」の秘事口伝の伝承者だったということもあり、関ケ原の戦いの時に「田辺城」に籠城した「藤孝」を助命すべきとのことで、時の天皇「後陽成天皇」が、西軍の「石田三成」対して「田辺城」の包囲を解くように勅命が下りたというエピソードが残っています。

 

心種園内にある「古今伝授の松と碑」

 

1780年間に六代藩主「牧野宣成」によって設立された藩校「明倫館」の表門が、「明倫小学校」に移築されています。屋根は、「桟瓦葺き」ですが丸みを帯びた「起り(むくり)屋根」の「薬医門」で非常に上品な門となっています。

 

藩校「明倫館」表門(現 明倫小学校)

 

この他にも、「田辺城」の遺構が市内に移築されていますので、少し足を延ばして見に行くのも良いと思います。

桟瓦葺、切妻造り、薬医門で両袖塀で左側に潜戸がある「城門」が「見海寺山門」(舞鶴市字西)に、また同様に、「城門」が「瑞光寺山門」(舞鶴市寺内)に移築されています。

 

城門(現 見海寺山門)

城門(現 瑞光寺山門)

 

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