再び関東地方に戻り、関八州を固める譜代大名のお城を紹介します。本日は、「安中城」(群馬県安中市)です。
安中城絵図
このお城は、戦国時代には「安中忠政」によって築かれました。「徳川家康」の関東入りによって、「関八州」の守りを固める為に、築城をし直しました。そして初代は、「井伊直継」が入りました。
「井伊直継」は、「徳川家康」四天王の一人「井伊直政」の長男で「彦根城」を継いでいましたが、病弱で「大坂夏の陣」にも参戦できなかったことから、弟の「井伊直孝」を「彦根城」主として、その替わりに「安中城」に「直継」が入るよう幕命が降りました。
譜代大名のお城の例により、「井伊家」2代の後は、「水野家」「堀田家」「板倉家」「内藤家」と蒼々たる家が歴代城主として入れ替わりが行われました。そして最終的には、再度「板倉家」が入封して幕末まで続きます。
この遍歴の中で特に著名な城主だったのは、1667年に入った「堀田正俊」で、「老中」への昇進によって4万石に倍増され、更には「徳川綱吉」の将軍擁立に非常に貢献したことから13万石で古河城へ加増移封されました。
また、「板倉家」の各城主は優秀な人が多く、特に「板倉勝清」は老中まで昇進を果たしました。
「安中城」は、「九十九川」と「碓井川」に挟まれた河岸段丘の上に築かれ、「本丸」と「二の丸」の主要部を中心にその周囲には家臣団を固めました。
本丸跡北側の断崖
主要部の入口には「大手門」が置かれ、丁度お城の中心部分には「太鼓櫓」が建てられていました。また、九十九川沿いには、「硝煙庫櫓」もあったようです。
「城内」には、「東門」「西門」「中門」「坂口門」「町口門」等が置かれ、外部からの出入口として「枡形」を採り入れていた門もありました。
現在の「本丸」跡は、「安中市文化センター」敷地になっていて、川側は断崖になっています。
本丸跡(現安中市文化センター敷地)
また「二の丸」跡は、「安中小学校」になっていて、正門脇には大きな「安中城址」石碑と「二の丸跡」の碑が立ちます。小学校の東側には「坂下門」跡と「空堀」跡を見ることができます。
城跡碑(安中小学校 校門脇)
二の丸跡(安中小学校校門脇)
坂下門跡とお八重が淵碑
小学校から北東方向にある断崖上から「上毛三山パノラマ街道」を見下ろしますと、こんもりとした森がありますが、そこが「硝煙庫櫓台」址だったようです。
硝煙庫櫓台跡(太郎兵衛屋敷跡)-パノラマ街道の向こうの茂み
この先進みますと「東門」跡の表示があり道路がクランクする「枡形」跡が良く判ります。近くの「熊野神社」は、江戸時代からある神社で神門には「安中城の城門」が移築されています。
東門桝形跡
東門番所跡
安中城城門(現 熊野神社神門)
そこから南東の坂道を下りますと、右手には「井伊直政」の正室の墓所である「大泉寺」の南側になりますが、お城部分の「石垣」が「追手」辺りまで続きます。
南側の石垣(大泉寺付近)
「追手」から坂道が北に向かって延びたドン付きの所が「町口門」跡となり、その正面には明治33年築の「旧碓氷郡役所」の建物がドンと横たわっています。建物の真ん中には玄関が据え付けられ、昔の役所や小学校校舎のイメージがそのまま残る建物です。
町口門跡付近と旧碓氷郡役所(正面)
旧碓氷郡役所
「番所」も併設していた「町口門」跡を左折すると「大名小路」が真っすぐに通ります。この「大名小路」沿いは、当時の姿が多く残されている道筋で「武家屋敷」や茅ぶきの「藩の郡奉行役邸宅」(市重文)が現存しています。「奉行役邸宅」は、母屋と長屋門で構成されていて、内部も開放されているので地方役職の邸宅である武家屋敷の姿が良く判る建物です。
大名小路
大名小路跡の武家屋敷
藩郡奉行役宅全景(手前長屋門、奥母屋)
藩郡奉行役宅(母屋の式台)
藩郡奉行役宅の母屋縁側側
また「西門」跡手前には、「藩武家長屋」(市文化財)が横たわっていて、現存の三軒に加えて一軒が復元されています。内側から「長屋」内部を観察できるようになっていて、内部は「上屋敷」「中屋敷」「下屋敷」等と二軒が共同で使用する「流し場」と「厠」が手前に出っ張っています。
西門跡
藩武家長屋
藩武家長屋内側(流し場-縁側-便所)
武家長屋の中座敷
武家長屋の上座敷
武家長屋の下座敷
武家長屋の厠(手前)と流し場(奥)
「安中城」の西端にある「代官町」には、生垣があり武家屋敷風の門や建物も並んでいますし、「安中城」下、特に「大名小路」沿いは江戸時代の風情が残る落ち着いた空間となっています。
代官屋敷跡の生垣
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