今日のブログも、譜代大名のお城シリーズで「岩槻城」(埼玉県岩槻市)を紹介しますが、例に漏れず藩主が入れ替わり立ち替わりするお城でした。

 

黒門(三の丸藩主邸宅にあった長屋門、市指定文化財)

 

「岩槻城」の成り立ちは、1400年中盤に「太田道真」或いは「成田正等」が築城したと言われていて、戦国時代には「北条家」の支配下に入りますが、「豊臣秀吉」の小田原平定後には「徳川家康」の家臣「高力清長」が入城することとなります。

 

その後は、「青山家」「阿部家」「板倉家」「戸田家」「松平(桜井)家」「小笠原家」「永井家」と、徳川家臣の有名どころが次々と人事異動で出入り(ではいり)して、藩主(城主)が固定するのは、1756年に「大岡忠光」が入城した時からとなります。

 

それだけ幕府は、「岩槻城」を関東支配の重要な拠点であるとの認識をしていて、「徳川家」に従順で且つ「老中」や「大坂城代」等の幕府の要職を務めるだけの譜代大名を置いたということです。

 

この「大岡忠光」は、9代将軍「徳川家重(いえしげ)」の小姓から側用人、若年寄に出世を果たした旗本でしたが、言語に障害のあった「家重」の言葉を唯一理解できた家臣とのことから大出世をして大名になり、「岩槻城」2万石の城主(藩主)となりました。

 

そして「大岡忠光」は、「江戸南町奉行」であった所謂「大岡越前守」と言われた「大岡忠相(ただすけ)」とは遠い親戚でもあります。

 

さて「岩槻城」ですが、沼などの湿地を利用して築城され、沼の中に歪な形をした「本丸」や「二の丸」「三の丸」を始め、様々名前の「曲輪」が繋がっていました。その「曲輪」の名前ですが、「城米蔵曲輪」「樹木曲輪」「竹笧(たけたば)曲輪」「御茶屋曲輪」「天神曲輪」「竹沢曲輪」と具体的な特徴ある名前が付けられ、それらは沼の中に位置していました。

 

そして沼の周囲には、「新正寺曲輪」「新曲輪」「鍛冶曲輪」が取り巻いていました。

 

鍛冶曲輪跡(現在、岩槻城址公園)

 

その周囲には、「元荒川」沿いに約7mの高さを持つ「大構(おおがまえ)」という大土塁が築かれ、難攻不落の「浮城」であったようです。

 

「大構」の案内板

 

城内に建てられた城郭建造物は、天守代用の二重櫓以外は、殆どが「平櫓」であったようで、「三の丸」には「御殿」が置かれました。

 

現在は、前述の「本丸」以下の各種命名された「曲輪」の殆どが失われていて、「新曲輪」と「鍛冶曲輪」の敷地だったところが、辛うじて「岩槻城址公園」として残っている程度です。「新曲輪」跡と「鍛冶曲輪」跡の間に横たわる水沼の名残を渡る真赤な「八橋(やつはし)」は美しいです。

岩槻城址公園の「八橋」で新曲輪(奥)と鍛冶曲輪の間に架かる

 

その他の遺構は、上記の曲輪内に残る「土塁」と「空堀」ぐらいですが、建造物としては、「三の丸藩主邸宅(御殿)」にあった長屋門の「黒門」と城内にあった薬医門形式の「裏門」が、廃城後に他所へ移築されていましたが、「新曲輪」跡に再移築されて展示されています。

 

黒門(三の丸藩主邸宅にあった長屋門、裏側から)

裏門(薬医門、墨書によると1770年築で1823年補修、市指定文化財)

裏門(薬医門)

 

城域から少し離れた城下町内には、儒学者「児玉南柯(なんか)」の私塾でその後藩校になった「遷喬(せんきょう)館」(県指定文化財、茅葺屋根)が残っていて内部も観覧ができます。

 

儒学者児玉南柯の私塾「遷喬(せんきょう) 館」

「遷喬(せんきょう) 館」内部

「遷喬(せんきょう) 館」(茅葺)

 

また、鐘楼「時の鐘」の「釣鐘」は1720年改鋳されもので、それを吊るす屋形「鐘楼」は1853年築で、城下に時を告げてきました。

 

時の鐘(鐘楼)

 

「大構」の写真を撮ってきたはずなんですが、整理が悪く抽出できませんでしたので、「案内板」だけでお許しください。また、「岩槻城」への訪問も随分前で、写真の風情が替わっているかもしれませんので、ご容赦ください。

 

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