本日は、江戸時代の中頃(1720年代)に、「徳川家康」の直臣になった「稲垣長茂」の子孫が居城することになった「鳥羽城」(三重県鳥羽市)を紹介します。
随分前に登城した「鳥羽城」ですので、写真はアナログ、周辺風情も大がわりしているかもしれませんことをお許しください。
鳥羽城跡全景(海側から)
「鳥羽城」は、「九鬼水軍」で有名な「九鬼嘉隆(よしたか)」が築城しますが、関ケ原の戦いでは、真田家同様に親子東西に分かれて戦いました。
東軍で戦勝した「嘉隆」は、鳥羽藩初代藩主となりますが、お家騒動で「三田城」(兵庫県)へ移封となり、元海賊が海から干上がってしまいます。
それ以降は、譜代大名のお城となります。「内藤家」→「土井家」→「大給松平家」→「板倉家」→「戸田松平家」と1725年までの間に次々と領主が替わります。
そして「稲垣家」が3万石で入城してやっと藩主が定着し、幕末まで続きます。この「稲垣家」は、藩祖が「稲垣長茂」で三河国の武士で、当初は「牧野康成」に仕えていましたが、後に「徳川家康」の直臣となり、関ケ原の戦い後は「伊勢崎」の領主やになり、子孫はその後も各所への転勤があった後に「鳥羽城」へ辿り着きます。
さて「鳥羽城」は、前述のように水軍を持つ「九鬼家」によって築城されましたので、当初は、海沿いの小山の周囲に堀を巡らした島のような海城で「大手」が海側、「搦手」が山側に位置しましたが、次に入城した「内藤家」によって近世城郭に修築されました。
埋め立てられた海側で大手水門があった辺り
城内には、天守代用の「三重櫓」が1基、「二重櫓」が5基、「平櫓」が7基もあり、「本丸」には三重櫓と本丸御殿がありました。「二の丸」は海側に、「三の丸」は北側に設けられました。
現在の「本丸」跡は、旧鳥羽小学校とそのグランドの跡地で広場になっています。「二の丸」跡は整備された広場となり「城跡公園」として利用されています。
本丸跡(三重天守と本丸御殿があった)
本丸から大手脇水門方向(右手に鳥羽水族館)
二の丸跡
二の丸跡方向
「三の丸」跡には、圧巻の模擬七段石垣がありますが、現実にはなかった石垣らしいので残念です。「本丸」跡や「家老屋敷」跡には、野面積みの石垣を見るることができます。
海側から模擬七段石垣(三の丸付近)
本丸西側の石垣
海側には「大手水門」「大手脇水門」「藤口水門」「鍋ケ崎水門」の4つの「水門」が開かれていました。そして内陸部との出入りには「藤口門」「横町口門」「相橋口門」の3つがありました。
私が「鳥羽城」を訪問した頃には、まだ門や櫓跡やその周辺をを詳細に見学するような習慣がなかったので、写真も主だった部分しか撮っていません。長年のお城巡りも、やはり見るポイントも深入りできるようになったことが自分としては嬉しいことです。
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