安芸高田市から広電バスで約1時間半、「広島城広島県広島市中区)を目指します。

 

外観復元コンクリート造りの天守(南面で走櫓と南小天守を繋ぐ連結式天守だった)

 

「広島城」の歴史と城主についてをお話しておきます。

 

「毛利元就」の長男「隆元」が「吉田郡山城」からの移転を決断し、その子の「輝元」(元就の孫)が、当時京都にあった「豊臣秀吉」の居城「聚楽第」を参考にして築城しました。縄張りは、「聚楽第」と相似形であると言われています。

 

しかしながら、関ケ原の戦いに敗れた「輝元」は、「広島城」から移封先の長州と周防の二国に押しとどめられ、その後に、豊臣恩顧の大名だったけれども関ケ原の戦いの恩賞で「福島正則」が入城してきます。そして、「広島城」の外堀や外郭を整備してより堅固な城づくりを行います。櫓数は日本最大級の76基あったそうで、二重櫓が35基、平櫓が10基、多聞櫓が11基です。

 

堅固な城づくりの最中、「正則」は洪水に見舞われた為に普請物の修築を行いますが、修築許可の不備とその修築した普請物の破却の仕方等を咎められて、信濃川中島(高井野藩)4万5千石に減転封させられます。現在でも、「正則」が破却した石垣と思われる箇所が残っています。

 

代わって安芸一国と備後半国の領主として42万石6000石で入城したのが「浅野長晟(ながあきら)」で、その後幕末まで「浅野家」は続きます。

 

崩れかけた石垣(福島正則が壊した跡)

 

 

さて、安芸高田市からのバスは、広島そごうの中にある「広島バスセンター」へ到着しました。「広島バスセンター」がある場所は、「広島城」の「惣構」の南限に位置しています。

 

「惣構」の構成は、「天守」がある「本丸」とその「馬出」的な「二の丸」を「内堀」で囲みますが、その「内堀」と「中堀」との間には、北側から「北の丸」、東側に「竹の丸」、南側に「内大手曲輪」、西側に「三の丸」が配備されます。

 

また、「中堀」と「外堀」の間には、北東部には「北出丸」が、東側から南側にかけた広い敷地が「大手曲輪」になっていて、西側の「外堀」と「太田川」の間には「西出丸」と「西の丸(西惣構)」が配備されています。

 

広島城の平面図

北の丸跡(基町高校、マンション群)

天守より北東方向(北の丸、北の丸出丸跡方向、白島小学校、中国総合通信局、広島逓信病院)

本丸上段と向こうに見える市街地は大手曲輪 (紙屋町東界隈)

本丸上段と向こうに見える市街地は大手曲輪と三の丸(県立総合体育館広島グリーンアリーナが見える)

三の丸跡方向

内大手曲輪跡と大手曲輪跡

萬象園の灯籠と礎石(浅野藩筆頭家老の三原浅野家の庭園にあった屋形灯籠と礎石を移設

 

「本丸」と「二の丸」は、「広島城跡」として国の史跡に指定されていますが、それ以外の各曲輪は、市街地となったり居住地、行政諸施設、スポーツ文化施設、病院、学校、公園などに変貌しています。それは、「天守」に登城して周囲を見回すと非常に良くわかります。

 

「内堀」は水を満々と湛えて幅が広大な堀が現存しますが、「中堀」「外堀」は埋められてしまい、「中堀」があった場所に「中堀跡」碑が立てられています。

 

「外堀」があった南端は現在「相生通り」とほぼ重なり、東端と西端の北折れとなる箇所には、各々に「外堀、櫓跡」碑が立ちます。また、北西の「三の丸」と「北の丸」の間の「アストラムライン城北駅」付近には「外堀」の石垣の一部が残っています。

 

外堀、櫓跡碑(南西端)

三の丸と北の丸の間に残る石垣 (アストラムライン城北駅付近)

 

「西の丸(西惣構)」は、西側に天然の要塞である「太田川(本川)」が曲線を描いて流れていますが、その土手には12基の「二重櫓」が並んでいたとのこと、現在はそのうちの一つの櫓台であった石垣跡を見ることができます。

 

現在の「西の丸」は、北側からマンション群や小学校敷地、中央公園、県立総合体育館「広島グリーンアリーナ」等の広大な敷地となっています。

 

旧太田川(現本川) 

旧太田川(現本川)沿いの櫓台石垣(二重櫓が12基も並んだ)

 

「広島バスセンター」があった「大手曲輪」は、現在「そごう」や「福屋」などの百貨店を中心に商業集積地となっている他に、広島県庁、広島市立中央図書館などが建ち並ぶ繁華街と官庁街で、「広電」の市内電車も殆どすべての系統がここ「紙屋町」を通ります。

 

大手曲輪跡(現在 紙谷東にあるバスセンターとそごう)

大手曲輪跡(現県庁敷地)

 

まず「惣構」を先に記載しましたが、「馬出」となっている「二の丸」跡に到着したのは、入館最終の16時で、扉を閉めかけていた管理人のおじさんに頼み込みんで滑り込み入館できました。だいぶ以前に中は見ていますが、忘却しているし、写真もデジカメでなくそんなに多く写真を撮っていなかったので助かりました。

 

前回来訪した時はまだ木造も綺麗で馴染んでいなかったけれども、今回はしっくりと木造らしさの良さが出ているように感じました。

 

「二の丸」は、重要な虎口前方を防御施設で固める「馬出」となっていています。その西側には古式な櫓門である復元「表御門」と復元「平櫓」が構えられ、「平櫓」の南側には復元「多聞櫓」が延びてその先端に復元「太鼓櫓」が繋がっています。

 

復元二の丸表御門 (真壁造り)

復元二の丸平櫓と復元表御門 

復元二の丸平櫓と復元多聞櫓と復元太鼓櫓

復元二の丸太鼓櫓(二層二階)と復元多聞櫓

 

「平櫓」の役割は、中に不寝番が常駐して表門の出入りを監視していましたが、更にその中には復元はされていませんが「番所」があって管理体制が行き届いていました。「太鼓櫓」は二階建て、侍屋敷街に登城の合図を送っていたようです。

 

復元二の丸表御門(木造)の内部 

復元二の丸多聞櫓内部(平櫓から太鼓櫓方向) 

復元太鼓櫓内部(1階) 

復元二の丸太鼓櫓と多聞櫓(二の丸跡側から)

復元二の丸太鼓櫓(二の丸跡内から) 

二の丸番所跡礎石

 

この「馬出」の奥には「本丸」となっていて「土橋」で渡ることができ、「本丸」の入口であり枡形となった「中の門」跡があります。

 

広島城 本丸と二の丸城跡絵図

本丸中の門跡石垣と土橋

本丸中の門跡石垣と鏡石 (枡形に折れる)

 

「中の門」を入った所が、「本丸下段」と呼ばれる所で、正面には「土塁」でできた少し高い場所が「本丸」の中央を占めていて「本丸上段」と呼んでいます。

 

本丸上段の縁の土塁

 

「本丸上段」には、「本丸御殿」の建物が建ち並び、その北西隅には「天守」とそれに付随する「東・南小天守」が連結していました。

 

外観復元コンクリート造りの天守(南面で走櫓と南小天守を繋ぐ連結式天守だった)

天守南面、入母屋と破風内の装飾を兼ねた扠首(さす)-屋根を支える扠首材が露出

南小天守跡の石垣

南小天守台(三層三階の小天守が建っていた)

東小天守跡の石垣

復元天守と東小天守台石垣 

天守の礎石

 

「本丸御殿」の入口は、正門の「中の門」から入る「表御殿」側の玄関式台とあり、「坂口門」から上がった所にある「中奥」側の玄関式台がありました。

 

本丸御殿の平面図

 

「表御殿」は、公式の場として「広間」「書院」「数寄屋」があり、「中奥」には「御納戸役詰所」「勘定奉行詰所」や城主日常の場である「寝所」があり、「奥御殿」には「御台所」「清所」「局部屋」「奥寝所」などがありました。

 

「本丸上段」の周囲は、少し低くなった細長い曲輪の縁が取り巻いていて、西側から「西帯曲輪」、天守の北西下が「天守下帯曲輪」、そして北側は「北帯曲輪」、東側には「東帯曲輪」と呼ばれていました。北西面には石垣が並び、東南面は土塁となっていました。本丸には、石垣の上に登りやすいように「合坂」が多数見ることができます。

 

天守台下帯曲輪と北帯曲輪とを分ける小枡形 

天守台下帯曲輪の石垣

天守台下帯曲輪と西帯曲輪とを分ける小枡形

石垣中段の排水口(西帯曲輪側から)

石垣に矢穴と刻印(西帯曲輪から)

本丸北曲輪石垣の合坂

本丸北曲輪石垣の合坂 

本丸北東隅櫓台

本丸上段石垣の算木積み

崩れかけた石垣(福島正則が壊した跡)

 

本日はこれまでとして、「天守」「本丸下段」「裏門(東門)」「内堀周囲」と「縮景園」「広島東照宮」は、次回のブログで紹介していきます。

 

 

 

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