関ケ原の戦いと大坂夏の陣が終わった後も、西日本で大きな力を持っていた安芸「広島城」の「浅野家」や、長門「萩城」の「毛利家」等の外様大名に睨みをきかす為に、「徳川家康」の従兄弟であった「水野勝成」を備後国に配して、福山に「福山城」(広島県福山市)を築城させます。

 

その「福山城」について、本日は見ていきますが、今春には、2度目の「福山城」訪問を計画中ですので、帰宅後に、本日のブログ内容をリフレッシュしたいと考えています。

 

幕府の意向に沿って建てられたお城ですので、周辺の「神辺城」や、遠く「伏見城」からも多数の城郭建造物を持ってきて据えました。その結果、「神辺一番櫓」「神辺二番櫓」「神辺三番櫓」と神辺の名前を被せた櫓名や、「伏見櫓」とズバリ伏見の名前が付く櫓や、伏見とは付かないものの現存重文の「筋金(すじがね)御門」や外観復元の「月見櫓」と「御湯殿」も、「伏見城」からの移築物と言われています。

 

外観復元でコンクリート造りの天守閣と小天守

 

伏見櫓(重文)三重の望楼型

伏見櫓(重文)本丸側から

筋金門(重文)本丸側から

外観復元の月見櫓

外観復元の御湯殿(懸造り)

 

福山城に入城した「水野家」は5代藩主に嗣子なく断絶となり、その後に「松平(奥平)家」が1代入城したものの10年後には転勤となって、1710年に「阿部正邦」が入城します。

 

その後「阿部家」は幕末まで当地を治めましたが、その間ペリー来航時に国防の対応を採った「阿部正弘」などの老中を輩出して幕閣の中心的な重い職を務めたことから、殆どが江戸詰め生活で「福山城」には殆ど居住することがなかったそうです。

 

西の外様大名の監視役を担った「福山城」は、丘陵上に「本丸」を置いて五重「天守閣」を建て、その廻りの一段低い所に帯曲輪状の「二の丸」を置き、その南側に北向きにコの字型の「内堀」を掘りました。

 

天守閣より本丸御殿跡を見下ろす

本丸御殿跡から天守を見上げる

 

本丸南側沿いに復元城壁が続く

本丸の石垣下は内堀跡、月見櫓が見える

 

「三の丸」は平地で、それを取り巻く広大な「外堀」に加え、城下町を取り込むように「総構」を形成していました。全体的には、「輪郭式平山城」であり、多数の「櫓」が林立していました。

 

「天守閣」は、五重五階地下一階で層塔型、二重の小天守と二重の付櫓を持つ複合型天守でした。天守の外壁は、白漆喰総塗籠で最上階は柱を見せる「真壁造り」でしたが、他の階は柱を壁に埋め込んだ「大壁造り」になっています。

 

更には、各階の屋根は、比翼千鳥破風、千鳥破風、軒唐破風の各種破風が付いていて、最上階には、壁に「華頭窓」が付き、「高覧廻縁」が取り巻くなど、非常に格式の高い天守でありました。

 

しかし一方で、北面の防備を固める為に、北面壁には鉄板が貼られるという日本で唯一の手法を採用していました。

 

戦前の天守閣北面(鉄板が貼られた)城内掲出の古写真より

 

 

太平洋戦争前まで残存していましたが焼夷弾で焼失したので、戦後にコンクリート造りの「天守閣」が外観復元され、白漆喰総塗籠で各階ともに「大壁造り」になっています。

 

「天守閣」とともに、戦前まで現存していた懸造りになっていた「御湯殿」や「月見櫓」「鏡櫓」は外観復元されていて、山陽新幹線福山駅構内から眺めることができます。

 

復元月見櫓と多聞櫓

鐘櫓(一部現存)

天守から見える山陽新幹線と在来線の福山駅

 

冒頭にも記載しましたが、今春の「福山城」再訪問では、二の丸、三の丸まで写真を撮り、詳細に紹介したいと思います。

 

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