「南部家」のお城シリーズですが、本日は、ずっと時代を遡った南北朝時代の建武政権が発足した時に築かれた「根城(ねじょう)」(青森県八戸市)を訪れます。このお城は「日本100名城」に選ばれています。

 

「根城」の城主と歴史についてですが、1333年に、南朝方の重鎮「北畠親房」の息子である「顕家」が、後醍醐天皇の息子「義良(のりよし)親王」に従って奥羽へ下向した時に、同行した「南部師行(もろゆき)」がここに城を築きました。「南朝方の根本になる城」との願いをこめて「根城」と命名されたそうです。

 

その後「師行」は京まで上りますが、北朝方の「高師直(こうのもろなお)」と戦い戦死してしまい、弟が家督を継いで「八戸南部家」はこの地で続きます。

 

「豊臣秀吉」が東北支配を治めた際には、盛岡城の「南部利直」が八戸周辺の支配権を接収して、八戸家は遠野へ移しました。それに伴って「根城」は1627年に廃城となりました。

 

「根城」の縄張りは、中世城郭ですので、天守は勿論のこと櫓などもない、御殿中心のお城です。馬淵川の河岸段丘の上に、最西側の「本丸から東側に向かって南北3つずつ合計6つの曲輪が並ぶ「連郭式」のお城です。

 

根城の縄張り絵図(現地に掲出)

「郭配置図」(現地に掲出)

 

 

「本丸」には、「主殿」を中心に城主が居住と政務を行う「常御殿」、城主の家族が居住する「奥御殿」が建ちます。

根城本丸の模型

 

「主殿」は、特別なお客と会ったり、様々な儀式を行ったりした所です。また、南部家に伝わる重宝が納められ大切に管理されていました。

 

主殿(裏側、中馬屋から)

 

部屋は、儀式を行う一番格の高い部屋である「大広間」、「二の間」「祈祷の間」が続き、更に廊下沿いに「控えの間」「茶の間」、そして一番奥に来客の応対をする人が控える「詰の間」が配置されていました。

 

その他に大きなスペースを取った「重宝の間」や「台所」も併設されていました。廊下沿いの扉は、「吊り上げ戸」になっていました。

 

「主殿内の部屋構成」

「主殿」入口部分と「廊下」

「主殿」廊下と「吊り上げ戸」

主殿の二之間と広間がある部分

主殿広間(南部家の武運長久祈願の為に行った正月十一日の儀式)

二之間

主殿の詰之間

 

更に、来客用の馬をつなぐ「中馬屋」、倉庫の「板蔵」、色々な生活用品を製作する「鍛冶工房」や「納屋」が建っていました。これらは、現在発掘調査に基づいて復元されています。中世城郭の復元は初めてとのことです。

 

中馬屋(北門側から)

板蔵、工房(奥御殿跡越し)

板蔵内(当主・家族使用の道具や衣類を収納)

鍛冶工房

鍛冶工房内部

工房

納屋

納屋の屋根

 

「本丸」の出入口は、「東門」と「西門」がありますが、メインは「東門」でその外側には「薬研堀」が掘られ、曲輪間は木橋が架かって「中館(なかだて)」に繋がっていました。

 

西門

東門

東門から薬研堀を渡り木橋へ

 

「本丸」と「中館(なかだて)」の間には、「薬研堀」が掘られ、曲輪間は木橋が架かっていました。

 

薬研堀跡

 

「中館(なかだて)跡」には、現在休憩所を兼ねた「四阿(あずまや)」が建ちます。また、その手前の「東善寺館跡」も芝生に覆われて特に何もありません。

 

中館跡の四阿(あずまや)

 

「根城」の入口には、「八戸城」の東門が移築再利用されています。その門の前には、「根城」を築いた「南部師行」像と「八戸博物館」がモニュメントとして建ち並んでいます。

 

八戸城の東門(元は根城で使用していて八戸城に移築、更に現在は根城へ再移築)

根城を築城した南部師行像

 

 

 

 

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