「来島家」は、平安時代以来、伊予国の瀬戸内海上にある来島に本拠を置く「村上水軍」の1家の当主でした。村上水軍には、他に「能島村上家」と「因島村上家」の2家がありましたが、来島村上家は早くから「豊臣秀吉」に臣従しましたので、毛利家に臣従していた後者2家とは、その後明暗を分けました。
関ケ原の戦いでは、「来島長親(くるしまながちか)」は西軍に参加しましたので所領である来島を没収されました。
しかし、妻の伯父に当たる「福島正則」の取りなしもあり、幕府からは、豊後国の内陸部である「森」に1万4千石で所領を与えられ「久留島(森)陣屋」(大分県玖珠郡玖珠町)を構え、水軍からは足を洗うことになりました。そして、来島の名前も、長親の長男である「通春」の代に「久留島」と改姓して、その後幕末まで存続しました。
「森(久留島)陣屋」は、「角牟礼(つのむれ)城」の麓に造られましたが、8代藩主「通嘉(みちひろ)」の時に、三島宮(末廣神社)を建築して、その周辺を大々的に高石垣を設けたり、「天守」の替わりにもなりうる茶室「栖鳳楼」を建造したり、更には、東麓に「藩主御殿庭園」、神社側に「栖鳳楼庭園」、清水御門下に「清水御門前庭」を配置して、城郭化するような整備が行いました。
「栖鳳楼」(茶室)を見上げる(2階表、神社の祭典時の参籠や来客のもてなしに使用)
栖鳳楼 (大分県指定文化財、1821年築)
栖鳳楼 (裏から)
栖鳳楼からの急な石垣
この石垣の上には末廣神社
久留島庭園(藩主御殿庭園、池泉回遊式庭園)
栖鳳楼前の枯山水庭園(石組と借景とが組み合わさった庭園、万年山と九重連山の山並みが一望)
現在でも、万年山と九重連山が眺望できる「栖鳳楼」が現存しています。二重二階で、初重は瓦葺、二重目は銅板葺き(当初は杉皮葺き)の寄棟屋根で、紅色塗りの真壁造りで、二階には高覧が取り巻いています。
前述した3つの庭園も現存しており、3つの庭園を園路で結びつく回遊式庭園群で、「旧久留島氏庭園」として国の名勝に指定されています。
門も2基残っていて、「清水御門」は城仕立ての「三島宮」の表門として造られ、その左右両側には高石垣が築かれ築地塀が延びています。
そこから階段下には、湧き水を利用した「清水御門前庭」があり、その前の石橋を渡った所には、非常に背の高い1830年築の「常夜灯」が見られます。更に、北西に少し下ると六脚門の「丸木御門」が建っています。
清水御門と土塀
清水御門脇の土塀
清水御門前の石橋
清水御門前庭(清水が年中湧き出て玉水と言われる)
清水御門前の日本一の常夜燈
丸木御門
城下に残る古い建造物の中で「久留島記念館」は、久留島家の子孫で、日本のアンデルセンと言われた童話作家の「久留島武彦」氏の遺品等が展示されています。
久留島記念館
「安楽寺」は、久留島家の菩提寺で、久留島家の初代~13代までの墓所があります。
安楽寺墓所の門
安楽寺(久留島家初代康親の墓碑)
大分県の山深いこの地は、JR久大本線の森駅から更にバスに乗って奥地へ入る所ですので、今まで周りが海で自由に行き来できた「来島長親」にとっては、非常に耐えがたいものだったんだろうなーと気の毒に思いました。
最後にJR森駅ですが、この駅は1984年まで阿蘇郡の小国へ向かう宮原線の発着駅でもありました。戦前戦後の乗降客はかなりの数だったと思われ、列車も頻繁に走っていたと思われるのが、森駅に併設されている「豊後森の機関車庫 とターンテーブル(転車台)」の大きさです。
豊後森の機関車庫 とターンテーブル(転車台)
豊後森の機関車庫 とターンテーブル(転車台)
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