本日は「徳島城」(徳島県徳島市)を訪れたいと思います。

 

「徳島城」の歴史と藩主について触れておきます。

戦国時代の阿波国は群雄割拠していましたが、「長宗我部元親」によって平定されました。しかし、「豊臣秀吉」による四国平定後、「蜂須賀家政」は阿波一国を賜り「一宮城」に入りその後に「徳島城」を築城しました。

 

「家政」は朝鮮出兵をしましたが文官派である「石田三成」とは疎遠であったので、関ケ原の戦いでは、何が何でも西軍でというスタンスを取らずに、「家政」とその子「至鎮(よししげ)」とは西軍と東軍に別れて戦うことで、家を守ろうとする策にでました。

 

結果、「至鎮」は毛利軍の抑えの役割で実戦には参加しませんでしたが、「家政」は出家して隠居することで、「至鎮」は「阿波国」17万6000石が安堵されました。

 

大坂夏の陣で手柄を立てた「至鎮」は、「淡路国」を加増されて25万7000石になり、「徳島城」を近世城郭として整備拡張して幕末・維新まで統治することになります

 

 

「徳島城」は平山城で、城山部分に「西三の丸」「西二の丸」「本丸」「東二の丸」と続く連郭式のお城になっています。

 

「天守」は、本丸にはなくて、「東二の丸」に「御三階櫓」として建てられましたが、石垣はなくて三重三階の望楼型であったけれども、上に上がる毎に一定の逓減があったようです。そして、下見板張りの外観でした。「西二の丸」には「弓櫓」、「西三の丸」には「帳櫓」等が建っていました。

 

「本丸」の石垣は、緑色した地元産の「緑泥片石」の野面積みが使用されていますので、その緑色が凄く奇麗です。

 

城山(本丸、東二の丸、西二の丸、西三の丸があった、62m)

本丸全景(弓櫓側から東方向)

本丸入口

本丸の石垣(緑泥片岩の野面積み)

本丸(62m)への石段と野面積み石垣

東二の丸 天守跡(天守台はなく、3層3階)

 

城山部分の西側には、「西の丸」「御花畠」があり元藩主の屋敷などがありましたが、現在は小学校、野球場とコート、行政施設などになっています。

 

城山部分の南側は、「表御殿」などの屋敷が並び、その前には庭園が拡がっていました。

 

現在は、御殿風の「徳島城博物館」が建ち、その東側には「表御殿庭園」が現存しています。茶人武将の「上田宗箇(そうこ)」の策定と言われ、枯山水と築山泉水が組み合わされている桃山様式を伝える名園となっています。枯山水の中には、大きな地元産の緑泥片岩で作った自然石橋が横たわります。

 

御殿風の徳島博物館(1992年完成、白壁銅板葺書院造り)

表御殿庭園の枯山水

表御殿庭園内 自然石橋(「蜂須賀至鎮」踏割伝説のある自然石橋)

 

「三木曲輪」へ渡る「下乗橋」の北側には「大手門」の枡形があり、その両脇の西側に建つのが「月見櫓」、東側に建つのが「太鼓櫓」で、どちらも物見や娯楽の目的で建てられた様相でした。

 

当時の「太鼓櫓」は、望楼型の三重四階の大型櫓で「天守」のような佇まいでした。また、「月見櫓」は、二重櫓ですが高欄が巡らされていました。いずれも、櫓台石垣が残ります。

 

下乗橋(三木郭から御殿への正面で入口、当初木製が1869年に花崗岩製に)

大手門(黒門)跡の桝形

月見櫓台(2層2階の下見板張り)

太鼓櫓(3層3階)台

 

「下乗橋」を渡った敷地が「三木曲輪」で、南側の表門として番所付薬医門の「鷲(わし)の門」がありました。「鷲の門」は、戦災で焼失しましたが、現在は当城で唯一復元されている城郭建造物です。

 
三木曲輪全景(NHKが見える)
鷲の門全景鷲の門(薬医門)正面、脇戸付き
鷲の門(薬医門)正面、脇戸付き
鷲の門(三木曲輪側から)
 
「鷲の門」から堀沿いに、手前から「月見櫓」に次いで「屏風櫓」「旗櫓」「隅櫓」が建ち並んでいました。
 
現在でも各櫓の石垣が残り、青々とした水が一杯の堀とそれを跨ぐ「数寄屋橋」、更にはその背景になっている山城の新緑とが、美しい光景を創り出しています。
 
屏風櫓台(下から)

旗櫓跡

隅櫓跡と東側掘

屏風櫓跡の石垣が出張っている

堀川(人工堀)

数寄屋橋(数奇屋門は不明門だった)

屏風櫓台から堀を臨む(南方向)

 

 

 

 

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