「熊本城」(熊本県熊本市)の城下町の古い街並みは、お城の南から南西にかけて拡がっています。
加藤清正が築城した1607年には、正門は「西大手門」だったようで、その下には、藩令を掲示する高札場があり「札の辻」と呼ばれていました。その界隈から、現在の「古町」「新町」などが城下町として栄えていました。
在りし日のスポットで照らされた「天守」
しかし、1877年の「西南の役」で薩摩軍の侵攻を防ぐために、多くが焼き払われたそうですが、その後の復興は目覚ましく、再度城下町の佇まいに戻り、現在に至っているようです。
札の辻に近い「新町」には、清正が花岡山方向からの敵を防ぐべく設置した二十九門の一つで、朝鮮の高麗門に準じて造った櫓門があったそうですが、現在では、「高麗門」跡とその碑が残っています。
新町(高麗門跡碑)
この付近には、江戸時代から整腸の妙薬「毒消丸」の名で知られる薬問屋の「吉田松花堂」の建物が横たわり、100年以上も続く味噌醤油製造元の「兵庫屋本店」、明治大正の文人も訪れた「長崎次郎書店」、文人や熊本城の古写真を残した「富重写真館」などの老舗が多数佇んでいます。
新町(吉田松花堂の屋敷壁に掲げている毒消丸の看板)
新町(吉田松花堂の周辺壁)
新町(吉田松花堂の正門)
新町(吉田松花堂-毒消丸の看板)
新町(長崎次郎書店-江戸時代に藩御用指物師から道具屋)
「新町」エリアから坪井川を渡る橋が数本ありますが、その内「明八橋(めいはちばし)」は扁平なアーチ橋として残ります。そして、橋越しに「古町」が拡がっています。
古町(明八橋-メイハチバシ-扁平なアーチ橋)
町民文化が残る「古町」には、レンガ造りの「西村邸」、下駄・草履屋の「武蔵屋」、酒屋「川上酒店」等が今なお営業をしています。これらの建物は、景観形成構造物として指定されています。
古町(西村邸-道路に面している所は倉庫、坪井川沿いは住居と船着、レンガ造りの防火壁)
古町(森本襖表具材料店-景観形成構造物)
古町(二階建ての町屋であるが、中は三階建て、塩胡椒屋など)
古町(昔ながらの建物-景観形成構造物)
広大なお城を見た後は、「二の丸御門」の北西の「三の丸跡」に移築された「細川刑部邸」を見ると、江戸時代の藩主の「下屋敷」(後には本邸にも使用されたとか)の構造がよくわかります。こちらは、元々は、「細川家」三代藩主だった「忠利」の弟である「刑部少輔興孝」が、お茶屋として、城外に建てたものであります。
この「細川刑部邸」の写真もふんだんに写してきましたが、現在、どこのファイルに入れたか不明で、写真掲出ができないのが残念です。
こちらも、大震災の影響が大きく、入口付近の土塀が倒壊しました。
5回に亘って、大震災前の在りし日の「熊本城」を、紹介してきました。
本来であれば、復元事業が進み、もっと多くの城郭建造物で取り囲まれていたであろう「熊本城」は、「姫路城」に次ぐくらいの立派で華やかな姿が望めたであろうと思うと残念でなりません。
しかし、後戻りはしていますが、現在も復興に向けて日々作業が執り行われていますので、数十年後の姿を夢見て、じっくり完成を待ちたいと思います。
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