2016年4月の大震災によって被害甚大だった「熊本城」(熊本県熊本市)は、現在復興に向けた取り組みがされていますが、在りし日の写真を見て「熊本城」の偉大さを再確認したいと思いブログにしました。
「熊本城」の歴史と城主についてまずお話をしておきます。
熊本(肥後)には、肥後守護職「菊池家」が「千葉城」を築き、その後「鹿子家」が「隈本城」を築城しますが、「大友宗麟」の庇護の下「城(じょう)家」が入城します。「城家」は、「豊臣秀吉」の九州平定によって「隈本城」を明け渡して、「秀吉」臣下の「佐々成正」が入城します。
しかし「成正」は失政によって切腹させられ、その後に「加藤清正」が入城して前述の「千葉城」と「隈本城」を取り込んだ大城郭を築城します。
関ヶ原の戦いでは「清正」は東軍に参加しその働きを認められ、旧「小西行長」領の肥後南半分も加増されますが、「清正」死後の跡を継いだ「忠広」は所領を没収されます。
そして外様大名ではありますが幕府の信頼が厚い「細川忠利」が54万石で入城して、「細川家」が幕末・維新まで熊本を統治します。
「加藤清正」は築城するに際して、特に「大天守」と「小天守」は、「豊臣秀吉」が建てた「大坂城」を参考にして立派な「破風」を取り付けるなど1607年ごろには築かれていたようです。
さて城内巡りに際しては、「細川家」が入城する前に「熊本城」を今の状態に近い築城を成し遂げた「加藤清正」像がある「行幸橋」から、「坪井川」沿いの「長塀通り」を歩んでいきます。
「加藤清正像」
「加藤清正像」後方には、復元「馬具櫓」が御花前橋口を睨んだ状態で建っています。御花前橋口は、「細川家」が邸宅に利用していた「花畑(はなばた)御殿」側に向けた入口です。「花畑御殿」跡は、現在は「花畑公園」として一部が残されています。
復元「馬具櫓」
震災で石垣が崩落した「馬具櫓」
花畑御殿について
「花畑御殿」跡の花畑公園
「馬具櫓」からは、「長塀通り」の名前の通り、右手に242mの上部白壁・下部下見板張りの「長塀」が、ずーと向こうまで延びていました。
震災では、この日本一長い現存「土塀」(重要文化財)は、土塀の「竹の丸」側で68本の控柱で支えられていたものの倒壊してしまい、一時は撤去されていましたが現在は復元されています。控柱の支え以上の地震のパワーがあったことに驚かされます。
242mの重文「長塀」
「長塀」の控柱
震災で倒壊した「長塀」撤去後の風情
「厩橋」を渡りますと、高石垣の上にポツンと復元「平櫓」が下から見上げることができます。その脇の復元「須戸口門」を抜けますと、正面には「東竹の丸」の高石垣が目の前に迫り、左手には「竹の丸」の曲輪が遠く奥まで見渡せる広さとなっています。
復元「平櫓」と須戸口門
「東竹の丸」の高石垣
「竹の丸」
「東竹の丸」高石垣の上には、江戸時代から残り重要文化財に指定されている櫓群が並びます。
手前から、「田子(たご)櫓」「七間櫓」「十四間櫓」「四間櫓」「源之進櫓」が並び、南側からの入城を監視する役割があったそうで、すごく圧巻な風景です。
「田子櫓」は、武具類などを収納していて、「源之進櫓」は管理していた藩士の名前が付けられたそうです。
重文の「田子(たご)櫓」「七間櫓」「十四間櫓」
重文の「田子(たご)櫓」
重文の「四間櫓」
「竹の丸」は、前述したように、南側を「坪井川」と「長塀」で防御され、西側には復元「櫨方(はぜかた)門」で管理していました。また、この曲輪内には井戸も残っています。
復元「櫨方(はぜかた)門」
「櫨方(はぜかた)門」への枡形
「竹の丸」から「元札櫓門」跡を通り抜けて石段を北側に登っていきますと「本丸」に辿り着きますが、当門の枡形を通り突き当りが「竹の丸五階櫓」跡の石垣が迫ってきます。
「熊本城」には、「天守」を除いて、五階櫓がなんと五基もありました。これについては、また後述するとして、先ほど下から見上げた現存櫓群が立ち並ぶ「東竹の丸」に入っていきます。
「元札櫓門」跡から大天守と本丸御殿(竹の丸から、左に飯田丸、正面に「竹の丸五階櫓」跡)
「竹の丸五階櫓」裏側の石垣と階段
下から見上げた櫓群を内側から眺めた感想は、漆喰の白壁の面積の方が外側からより広く美しく感じます。一連に並んで見えた外側に比べて、内側の並び方は、アンジュレーションに富んでいるように思いました。
手前から「十四間櫓」「七間櫓」「田子櫓」(いずれも重文)
「七間櫓」(重文、東竹の丸側から)
「源之進櫓」(重文、北側から)
更に進むと、左手に「本丸」跡に建つ「月見櫓」「塩蔵」「本丸東三階櫓」の各跡の石垣が続き、「本丸東門跡」に到達します。
一方右手には、現存で重要文化財の「東十八間櫓」「北十八間櫓」「五間櫓」が並び、「不開門(あかずもん)」が並んでいます。
「不開門」の扉は上部が格子の透戸になり、城門に殺到する敵兵に矢や鉄砲で応戦できるようになっています。
「東十八間櫓」(重文)と「東櫓門」跡
東櫓門跡(上の建物郡は、「北十八間櫓」と「東十八間櫓」)
左から「五間櫓」「北十八間櫓」(いずれも重文)
「不開門」(重文、左入母屋、右切妻で六間櫓に繋がっていた)
「不開門」の格子戸状の透戸(実戦用)
ただ、震災時には、この「東十八間櫓」から「北十八間櫓」「五間櫓」「不開門(あかずもん)」まで、石垣が崩落して櫓の建物が倒壊したり、潰れてしまうなど、大きな被害を出した所です。
倒壊した櫓や門の部材を再利用した復元によって、重要文化財の再指定を目指してほしいものです。
「不開門」前にある重要文化財「御平櫓」は、「櫓番詰め所」が付随する珍しい櫓で、こちらも外側から見ると亀裂が走っています。
「御平櫓」(重文、不開門への坂道からの侵入に備えた、左は櫓番詰所)
震災後の「御平櫓」の裏側は亀裂が入る
次回のブログでは、「飯田丸」から「本丸」に向けて登城してまいりたいと思います。
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