織田信長の家臣で豊臣秀吉配下に置かれた仙谷秀久は、紆余曲折を経た後に、高野山で謹慎生活を送っていましたが、秀吉の小田原遠征の時に参加して手柄を立てて小諸城を与えられました。

 

そして、関ケ原の戦いの時には、東軍に加わり上田城攻めに関わったことから、小諸城を安堵されました。

 

その後、1622年に真田信之が治めていた上田城へ、仙谷久秀の息子忠政が6万石で移されてからは、子の正俊、その孫の政明が上田の地で仙谷家を継ぎましたが、1706年政明の時に但馬国出石城へ移封されます。出石城に移ってからは、幕末まで約160年間を、出石城(兵庫県豊岡市出石町)で統治しました。

 

出石は、古くは丹波国の守護であった山名家が治めていて、「有子山城」等築きましたが、小出吉政の長男吉英(よしひで)が城主となった時に、山上部分や天守閣を破却して山麓部分だけをお城として残したのが出石城です。そして小出家、松平(藤井)家が統治した後に、前述の仙谷家が入封してきます。

 

辰鼓櫓、奥に有子山城跡

仙谷家の出石城ですが、堀で囲まれた三之丸が築かれ城主の居館の他に、下郭、二之丸、本丸、稲荷丸が階段状に築かれました。

 

昔の城内地図

現在では、大手門跡石垣に建てられた辰鼓楼が、出石の街のシンボルとなりポスターの写真にも使われています。またその下は、外堀の遺構となっています。三之丸跡には、藩主対面所跡などがあり、現在は三之丸碑が立ちます。

 

辰鼓櫓(しんころう)が大手門跡石垣上に建つ

大手門跡から外堀

三之丸跡碑

また、登城橋を渡ると埋門跡に復興登城門が築かれ、そこから階段を上ると、二之丸跡、本丸跡、稲荷丸跡が階段状に残り、本丸跡の東西には、復興隅櫓が建てられています。 堀周囲一帯は登城橋河川公園として整備され、観光地になっています。

 

登城橋と埋門跡に登城門

本丸に建つ模擬櫓(西側)と城下

本丸に建つ模擬櫓(西側)

本丸に建つ模擬櫓(東側)

本丸跡(奥に模擬隅櫓)

稲荷丸の石垣

特に、出石伝統的建造物群保存地域内には、土壁の酒蔵や蔵、町屋が建ち並び昔の面影を感じることができます。江戸時代末期に起こった「仙谷騒動」の中心人物の仙谷藩家老 仙石左京の居館跡が長屋門 とともに残り、表から見ると裏側の二階部分が隠れる構造となっている屋敷を見学することができます。

 

出石伝統的建造物群保存地域内、酒蔵

出石伝統的建造物群保存地域内、蔵

おりゅう灯篭(船着場灯篭)

「仙谷騒動」は、江戸三大御家騒動と言われ、藩主仙石政美の死後、支流の家老仙石左京が主家の乗取りを計画し,反対者を次々に追放した騒動です。

 

出石藩家老 仙石左京の居館 長屋門

出石藩家老 仙石左京の居館

出石藩家老 仙石左京の居館 二階(外が見える)

城下町の北部には、 松平家と仙谷家の菩提寺である「経王寺」と「見性寺」があります。どちらのお寺にも櫓に似た鐘楼が付随していて、疑似城郭建築物として北からの敵の侵入の監視目的を意識して造られた寺であったようです。

 

経王寺鐘楼 (松平家と仙谷家の菩提寺)

見性寺鐘楼

透き通るような白を特徴とする白磁器の「出石焼」、仙谷家が上田から移封の際に持ち込んだ信州そばを原点とした「出石そば」が名物となっていて、お土産や昼食に利用されています。