織田信長の家臣であったが、その後秀吉や家康に仕えることによって、大名として取り立てられ、幕末まで続いた「分部(わけべ)家」の居所であった「大溝陣屋」(滋賀県高島市勝野)を、本日は訪ねたいと思います。
分部家は、伊勢国の国人長野家の分家でありまして、織田信長が伊勢制服をした時に、織田家の家臣となりました。その後は、豊臣秀吉に仕え、関ケ原の戦い時には東軍に従軍したので2万石の領地を確保し、分部光嘉(みつよし)の子光信の時に大溝に転封となり、その後幕末までこの地を統治しました。
信長の高島侵攻後、明智光秀の縄張りで「大溝城」が築城され織田信澄が城主となり、秀吉の「長浜城」、明智光秀の「坂本城」、そして信長の「安土城」が、信長の近江における城郭ネットワーク四城と呼ばれる程、重要なお城の一つでした。
大溝城天守台石垣
秀吉の長浜城天守閣跡碑と秀吉像
秀吉の長浜城模擬天守閣
光秀の坂本城跡碑
信長の安土城天主台の礎石群(廻りは1階の石垣)
信長の安土城天主模型(入母屋造りに五階・六階が望楼)
本能寺の変後は、目まぐるしく城主が替わります。そして1619年に分部光信が入封しますが、一国一城の令で大溝城は三の丸を残して破却されてしまします。
そこで、分部光信は、大溝城の三の丸跡に陣屋を築いて、そこを居所として領地を統治しました。
現在は、大溝城時代の天守台石垣が残る他に、二の丸跡には分部神社が建っています。
また三の丸跡の陣屋跡には、高島市民病院の敷地になっているようです。唯一残る城郭建造物は、陣屋惣門であった長屋門が民家として利用されているのを見ることができます。また、「丸の内に三引き」の分部家定紋入り瓦が屋根上で見ることができます。
天守台石垣
大溝陣屋跡付近(二の丸~三の丸跡、高島市民病院と分部神社)
惣門(長屋門、1755年修築、 2000年の写真で当時は高島文庫)
惣門(長屋門、2000年当時は高島文庫という本屋)
惣門(長屋門、分部家の家紋残(丸の内に三引)
笠井家の武家屋敷が残されていたり、道路の真ん中には水路が流れる「町割り水路」があったり、少しですが古い建物もあって、城下町の風情を感じさせています。
笠井家武家屋敷
町割り水路
古い街並み
古い街並み
琵琶湖湖畔で、湖を巧く使った大溝城をこれまた巧く活用した陣屋となっていたようです。
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