本日は、引続き旧織田家家臣が大名になって居城したお城、「村松城」(新潟県五泉市村松)へ参りたいと思います。

 

織田信長と豊臣秀吉の下で活躍した堀秀政の長男秀治(ひではる)は、軍略家として名を上げていましたが、その家老として活躍したのが堀直政でありました。そして、直政の子直寄(なおより)の次男が直時で、その系統の堀家が村松城主(藩主)として幕末まで統治しました。

 

且つて「村松」には、上杉家が越後の国を統治していた際に館を設けていましたが、1639年に村上城主だった前述の堀直寄の次男直時が分封され、二代藩主直吉によって陣屋が築かれたのが最初です。陣屋期間が長かったですが、1850年に九代藩主直央(なおひさ)の時に城主格になったことから、お城の大改築が行われました。

 

お城は、主に本丸と二の丸で構成されて、この間には堀が設けられました。そして、本丸には御書院が、二の丸には南御殿がそれぞれ立派な御殿が造営され、本丸の北西隅には櫓も設けられました。また、二の丸南御殿の中には池を持つ中庭が造園され、本丸御書院敷地入口には、枡形の御門が築かれ、その前には土塁と堀で守られていました。

 

御城・御殿復元模型(大広間、桝形御門)

御城・御殿復元模型(北西隅の櫓)

御城・御殿復元模型(南御殿)

現在は、本丸跡内にある郷土資料館内には、近年発見された城郭絵図『御普請方絵図』などに基づいて作成された「本丸御書院、二の丸南御殿」の模型が展示されている他、資料館の前には、藩主が将軍菩提寺寛永寺へ寄進した「村松藩紋入り手洗鉢」が寛永寺から返却されて展示されています。

 

御城絵図(1911年村松藩士山田氏が作成、村松郷土資料館)

村松藩紋入り手洗鉢(藩主が将軍菩提寺寛永寺へ寄進したもの)

本丸跡には、二の丸との境界の堀沿いに土塁が残る他、枡形御門跡とその門脇には堀跡と土塁が残っています。二の丸跡には、二の丸南御殿の庭園の池跡や、城内に建てられていた稲荷神社も現存しています。

土塁(右が掘)

御殿側敷地(桝形方向)

桝形門脇の掘と土塁

桝形御門脇の堀跡

御殿と南御殿の間の掘跡

二の丸内南御殿庭園の池跡

稲荷神社(二の丸内)

大手門は、現役場付近にあって大手門跡の案内板が設置されている他、源太小路という小路が堀跡となっていることが紹介されています。そして藩立学問所跡には、文化会館が建てられています。

大手門跡(現町役場)

源太小路と堀跡

藩立学問所跡

お城以外にも、見るべきところが多く、村松藩五社の一つの「住吉神社」、戊辰戦争時の亡くなった者を称える「村松七士の碑」、堀家菩提寺の「英林寺」 、城跡公園内に鉄道ファンには嬉しい「五泉~加茂間を走った蒲原鉄道車両」の展示、イギリス積みとフランス積みが同時に見れる県立村松高校正門(1903年、国登録有形文化財)など、興味をそそられるモノばかりです。

住吉神社の本殿と拝殿(総欅造り、市文化財)

村松七士の碑(戊辰戦争時の亡くなった者を称える碑)

堀家菩提寺英林寺

五泉~加茂間を走った蒲原鉄道車両(城跡公園内)