長期間に亘って続けてきました御家門の松平家のお城シリーズも、いよいよ「浜田城」(島根県浜田市)で終了となります。

 

浜田城復元CGI(城内案内看板より)

 

「浜田城」の歴史と城主については、大坂夏の陣で戦績のあった吉田重治が入封して1620年代初めに築城します。その後、吉田家改易の後は松井松平家が統治します。

 

この松井松平家は、戦国時代に今川氏や吉良氏に仕え、後に徳川家康の臣下になって松平家を名乗ることを許された家ですので、御家門の松平家とは少し違います。

 

そして1836年に、「浜田松平家」(越智松平家)の五代斉厚(なりあつ)の時に、浜田城に入城します。「越智松平家」の家祖清武は、三代将軍家光の子で甲府藩主であった徳川綱重の次男であり、初めは越智家の養子として育てられましたが、後に松平家を名乗ることを許されました。

 

浜田城にスポットが当たるのは、幕末1866年の第二次長州征伐の時で、長州藩の大村益次郎が攻めてきたので、藩主であった武聡は逃走してしまい、残された藩兵はお城と城下町を放火して敗走しました。

 

浜田城の構成は、丘陵の亀山に本丸を置いて、その下に狭い二の丸、三の丸、出丸を置く平山城です。そして北側には松原湾、東側に浅井川、南西側を浜田川によって天然の掘として活用していました。

 

外ノ浦の湊(物流の拠点)

浜田川(船倉があった場所付近)

 

「本丸」は、周囲を塀で囲み、天守台のない「三重櫓」を天守の替わりにしており、「本丸御門」と多聞櫓の「六間長屋」が隣接して建っていました。本丸の中心には鉄砲の玉などを収納する「玉蔵」が設けられていました。

 

本丸内三重櫓跡

本丸跡

本丸一ノ門跡(本丸方向)

本丸長屋跡(一ノ門の右側)

 

「二の丸」には、焔硝蔵や番所、中ノ門などが置かれていました。そして、二の丸の入口には二の門という渡櫓門で枡形を形成していて、城内最大の門でありました。現在でも、立派な石垣が残ります。

 

左が二ノ門で前は桝形

二ノ門跡(渡櫓門)と桝形

出丸跡

三の丸への階段 (突き当たりが出丸)

三の丸石垣

中ノ門跡石垣

裏門石垣

 

また、「三の丸」には、御殿や諸役所、御用米蔵、大手門などが置かれていました。三の丸や出丸に至る階段横には、三の丸の石垣が全面に拡がります。

 

大手門跡碑

御殿跡(現税務署)

浜田県庁跡(明治3~9年、津和野藩邸を移築して使用)

 

現在は、上記掲出している写真にもありますが、本丸や二の丸の二の門、中の門などの石垣、三の丸の石垣や土塁が山麓の中に現存しています。

 

また、唯一の城郭建造物としては、旧浜田県庁門でその前には津和野城門で使用していたモノがあります。その門は、明治3年~昭和41年迄役所の門として使用されていて、現在は三の丸へ上る階段の入口、護国神社脇に移築されています。

 

旧浜田県庁門 元津和野城門

 

その他の見所としては、亀山の西側で浜田川沿いにある「御便殿」という建造物です。これは、大正天皇が1907年に山陰を行幸した際、浜田での宿泊施設として建築されたもので、城郭建造物のまるで御殿を思わせるような建物で、唐破風を持つ立派な玄関が格式を誇っています。

 

御便殿

御便殿(東側)

 

以上で、浜田城を終了します。

 

 

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