本日からは、将軍家庶流・姻族系松平家のお城をお届けします。

 

まず「将軍家庶流・姻族系」とは何ぞやといいますと、

①御三家からの流れからできた松平家

②家康の次男で養子に出た結城秀康の流れからできた松平家

③家康の異父弟の久松定勝からの流れからできた松平家 

上記以外で、時の将軍家の血縁、血縁でなくても配偶者の縁者などが時の権力の元で、御家門の松平家を授けられた家のようです。

 

この区分ですと、「会津松平家」「吉井松平家」「宮津松平家」「浜田松平家」等がありますので、下記に簡単な松平家の名乗りの経緯とその居城を記載しておきます。

 

「会津松平家」は、三代将軍徳川家光の庶子保科正之が、家光に取り立てられて会津若松城を居城とし四代将軍家綱の後ろ盾として活躍しましたが、三代正容(まさかた)の時に松平姓が授けられました。ここは、5/31~6/3のブログで紹介しましたので今回は割愛します。

 

会津若松城(復元天守閣)福島県会津若松市

「吉井松平家」は、三代将軍家光の正室として、鷹司(たかつかさ)信房の娘孝子が輿入れの際、その弟の鷹司信平が付き添って旗本として仕えたことから始まります。そして、信平は紀伊徳川頼宣の婿となって、7千石の松平鷹司家が立ち上がりその後諸侯に列するようになって、鷹司松平家三代信清の時に吉井陣屋を設けます。

 

吉井陣屋門(現存)群馬県多野郡吉井町

 

「宮津松平家」は、本庄松平家とも呼ばれます。家祖宗資は、五代将軍綱吉の生母である桂昌院の異母弟ということで大名家に取り立てられ、その子資俊から松平家を名乗ることが許されました。本庄松平家四代資昌(すけまさ)の時に宮津城に入城しました。

 

宮津城城門(現存)京都府宮津市

 

  

「浜田松平家」は、越智松平家とも呼ばれます。家祖清武は、三代将軍家光の子で甲府藩主であった徳川綱重の次男であり、初めは越智家の養子として育てられましたが、後に松平家を名乗ることを許されました。兄が六代将軍徳川家宣になり5万6千石まで加増されて、越智松平家五代斉厚(なりあつ)の時に浜田城に入城しましたので、浜田松平家とも呼ばれています。

浜田城(左が二ノ門跡でその前は桝形)島根県浜田市殿町

では、次回のブログからそれぞれのお城・陣屋を訪れてまいりたいと思います。