徳川一族である「御家門」松平家のお城シリーズを掲載していますが、本日からは、家康の異父母兄弟である久松系のお城に進んでいきたいと思います。

 

徳川家康は、於大の方と岡崎城主であった松平広忠の間に生まれましたが、今川家との関係で政策的に於大の方は広忠に離縁されました。そして久松俊勝と再婚してできた子の系統が久松(松平)家であります。

 

以前に記載しましたが、久松系松平家とその居城は下記の通りです。

・多古松平家(多古陣屋)

・小諸松平家(小諸城)

・刈谷松平家(刈谷城)

・桑名松平家(桑名城)

・松山松平家(松山城)

・今治松平家(今治城)

 

まず、多古藩(現在 千葉県香取郡多古郡)についてですが、徳川家康が関東に入った時に、保科正光を入れ、その後には土方家、そして幕領等となりました。

 

多古松平家の領地となったのは1635年頃からで、大名として統治を始めたのは1710年代に入ってからですので、政庁期間は幕末までの約150年ばかりでした。ただ、幕末に戊辰戦争が勃発したことから、徳川家と決別する方が得策との判断で、松平家の名字を捨てて久松家に改姓しています。その頃には、もう葵の紋所の効果も薄まっていたんですねー

 

居住地は、多古(たこ)陣屋として、居館を中心とした陣屋造りでした。

現在は、多古第一小学校の敷地になっていますが、裏門の脇には陣屋の石垣が現存していますし、その前には、真っ赤な稲荷社が陣屋を守るようにして建てられています。

 

陣屋跡脇の稲荷社(現 多古第一小学校裏門脇)

陣屋跡石垣(現 多古第一小学校裏門脇)

陣屋跡(現 多古第一小学校裏門)

陣屋跡(現 多古第一小学校グランド)

 

日蓮宗本山寺の正東山日本寺の入口付近には、多古松平家の霊廟があります。霊廟の唐門は今にも朽ちそうで、トタン板の雨除けを被していました。中には、円形や五輪塔、宝塔、宝篋印塔(ほうきょういんとう)等色々な形のお墓が見られます。

 

正東山日本寺の久松(多古)松平家霊廟の唐門

正東山日本寺の久松(多古)松平家のお墓

 

またこのお寺は、あじさい寺とも言われ、梅雨の季節は素晴らしい眺めになります。

 

正東山日本寺 (日蓮宗本山寺)山門

正東山日本寺のあじさい園

明日は、小諸松平家のお城である小諸城に進みたかったのですが、あまり写真を保持していませんので、さらっと流して刈谷松平家のお城であり、於大の方の故郷でもある刈谷城に進みたいと思います。