本日は、秀忠系松平家のお城「津山城」(岡山県津山市)に訪れたいと思います。
「津山城」は、関ケ原の戦い後に、18万6,500石で入封した森忠政によって築城され、完成したのは1616年でした。森は4代続きましたが、5代目衆利が江戸出府の途中に狂心した為津山を召し上げられた。
その後、秀忠系松平家の松平宣富(のぶとみ)が、10万石で入城して廃藩置県まで当家が相続しました。
その宣富とは、白河藩主で以前に生涯7回移封があって「引越大名」として紹介しました松平直矩(なおのり)の三男として生まれました。そして越後騒動で改易されましたが、その後高田藩松平光長の養嗣子となり長矩(ながのり)名を改め、津山城が与えられました。津山城は、美作国の中心のお城であったので、城主である直矩以降の津山藩主は国持大名として処遇されました。
津山城は、現在の岡山県津山市に所在し、梯郭式平山城です。お城の東側を流れる宮川と丘陵地の天然の断崖によって防衛を誇っています。
左から十一番門、粟積櫓、大戸櫓の各石垣(衆楽園前から臨む)
粟積櫓跡から北方面を見る(上の写真と逆方向)
現在明治時代の津山城の写真が残っていますが、鶴山(かくざん)から外郭までの間にびっしりと城郭建築物が張り付いている姿は壮観なものがあります。櫓数は約77棟が建ち並び、広島城や姫路城の櫓数よりも多かったとのことです。
天守中心に各櫓の古写真(北西から見た、津山城内に掲出写真より)
1873年の廃城令で、天守閣を始め、その多くの櫓や御殿などが破却されて、最近まで天守台や櫓台及び門や階段の石垣のみが残る城跡でしたが、現在は、再建された二重櫓の備中櫓と太鼓塀が見られます。
天守台(5層5階の層塔型天守、高さ22m、明治7~8年に取り壊される)打込接の石垣
五番門跡、六番門跡、復元備中櫓と土塀
明日からは、城跡の中にいっぱい残る、石垣群を見ていきたいと思います。また、お城の周辺は、伝統的建造物群保存地域が残り、非常に城下町の風情を残していますので、そちらへも足を延ばしていきたいと思います。
宮川沿いの模擬土塀、川の左側が重要伝統的建造物群保存地域
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