松江城」(島根県松江市)をお届けします。

 

最初に、「松江城」の城主と歴史について触れていきたいと思います。

 

関ケ原の戦いの後に、月山富田城に入城した堀尾忠氏・吉晴親子が、手狭な富田城から宍道湖畔の松江に城を移したのが始まりですが、その子忠晴は無嗣改易となりました。今の松江城は、堀尾家の時代にほぼ出来上りました。その後、京極忠高が入城しましたが、これも忠高の末期養子が認められず改易となりました。

 

天守(国宝)真正面から

天守より宍道湖方向

松江城下模型(手前の橋が松江大橋)

松江大橋から宍道大橋

 

江戸時代の初期は、家督相続が非常に難しい時期であり、幕府は、外様大名の相続を難しくすることによって改易し、幕府の領地を増やそうとする政策がとられていたとも言われています。当時の相続は、事前に届け出をしておき嫡子が認められておく必要があり、事故や病気で急遽相続人が無くなってしまった場合の末期養子は、当時は認められていなかったようです。

 

1651年に起こった、浪人を扇動して幕府転覆を狙った「慶安の変」を契機に、大名の相続の有り方について、緩める方向となったようです。というのも、大名の改易によって増大していた浪人の処遇に、幕府は手を焼くようになってきたからにほかなりません。

 

さて、京極家の後に18万6千石で入城したのが、松平(結城)秀康の三男の松平直政でした。

 

天守から南側を臨む(宍道湖が見える)

 

年貢米の収入だけでは財政が厳しく、木蝋(もくろう)、朝鮮人参、木綿、たたら鉄を専売にしていましたが、財政の改善がなかなか進まなかったようです。そして、七代の治郷の時に、六代の宗衍(むねのぶ)の時から家老だった朝日丹波に対して、一層の財政再建に当たらせた結果、かなりの財力が蓄えられるようになりました。

 

そして、治郷は隠居したあと不昧(ふまい)と号して、茶の湯に没頭して、高価な茶器などを買い集め、松江における茶道の発展、和菓子の開発に貢献しました。今でも、駅構内や百貨店等の店舗には「不昧公三大銘菓」(若草、菜種の里、山川)を始め、色々な美しい生和菓子も並んでいます。

 

さて、本題の松江城ですが、祈祷札が見つかり建築時期が特定されたことによって、2015年7月に、彦根城の国宝指定からなんと63年ぶりの国宝指定された天守から訪ねていきたいと思います。

 

天守(国宝)二層の大入母屋で望楼型天守、桃山建築

 

 

 

「ポチ」をどうぞよろしくお願いいたします。

にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村

 

「フォロー」の方もどうかよろしくお願いいたします。

シロスキーのお城紀行 - にほんブログ村

 

もしよろしければこちらにも「ポチ」をお願いいたします。


お城巡りランキング

 

PVアクセスランキング にほんブログ村