御三家水戸系松平家の最大のお城が高松藩12万石の「高松城」でした。

 

高松藩は、徳川家康の十一男である水戸の徳川頼房の長男であった頼重(よりしげ)が、この高松城に初代藩主として入城しました。

 

本来であれば、水戸藩では長男である頼重が二代藩主として継ぐべきであったのですが、次男である光圀(所謂、水戸の黄門様)が二代藩主として継いでいます。それに伴い頼重は高松藩に出された形になっています。

 

これは、当時の徳川三代将軍家光が、二代藩主に光圀を押したことからそのようなことになったらしいです。光圀の名前も、家光の一字「光」を貰っていることから、かなり覚えが良かったのでありましょう。

 

しかし光圀は、儒教精神が高いこともあって、兄の頼重を差し置いて水戸藩主になったことに凄く憂いを持っていたようで、水戸藩の三代藩主には、頼重の息子である綱條(つなえだ)を高松藩から呼び戻し、一方、光圀の息子である頼常(よりつね)を高松藩主とする、たすき掛け人事のトレードを行いました。その後は、高松城には、光圀系の藩主が続きました。

 

さてお城は、瀬戸内海に面した水城で、三重の堀があり、天守台のある天守曲輪を中心に、二の丸、三の丸、北の丸、東の丸、桜の馬場、西の丸の曲輪が、時計回りに配備されている輪郭式平城です。

 

当時は、瀬戸内海とお城が接していたので海から見ると浮かんでいるようだったらしいですが、現在は海とお城の間には陸地ができて、水城の面影はありません。ただ、海からの水を堀に取り入れている「水門」が残っていたり、海からは灯台的な役割を果たしていたと思われる三重の「着見櫓(月見櫓)」が残っている他、当櫓の続櫓に付随して海から荷物などを水揚げする為に造られた「水の手御門」も残っています。

 

瀬戸内海からの海水が「水門」から流入

「着見(月見)櫓」(重文)の色付き長押がお洒落

「水の手御門」(重文)

手前から「着見櫓」の続櫓、水の手御門、多聞櫓(いずれも重文)

この「着見櫓」は、壁の窓の上下に長押(なげし)が引かれている凄いお洒落なデザインで、切妻破風と唐破風の両方も付けています。

 

更には、三重で巨大な千鳥破風と唐破風を持つ立派な「艮櫓」が、太鼓櫓跡に移築されて残っています。また、太鼓門枡形の入口である高麗門の「旭門」や「穴門」も遺構として見ることができます。

太鼓櫓跡に移築された「艮櫓」(重文) 大きな千鳥破風

太皷門枡形の高麗門である「旭門」、入って右手に「穴門」がある

三の丸には、「披雲閣」という御殿がありますが、これは、大正年間に高松松平家別邸として建てられたもので、現在は重要文化財に指定されています。

 

「披雲閣」(重文、大正時代の建物)

三の丸から桜の馬場の出入口には、「桜門」が戦前まで残っていましたが、太平洋戦争で焼失してしまい、現在は石垣が残されています。戦前の写真が残りサイズ等がわかりますので、下記天守閣同様に再現の兆しが出ています。

 

「桜門」の櫓門台の石垣

「桜の馬場」跡

天守曲輪のある本丸と二の丸は、「鞘橋」という廊下橋が復元されて繋がっています。そして長年、天守台の上に「玉藻廟」が建てられていましたが、最近石垣の積み直しがあり現在はありませんが、明治時代初期の天守閣の写真が見つかり、その積み直しされた上に天守再現の話も出ているようです。

復元廊下橋「鞘橋」

天守台(今は無い玉藻廟)

高松城の天守閣は、珍しい形の「南蛮造(唐造)」といって、最上階(四階)が下の階(三階)より出張っている形をしていて三重四階でした。小倉城や岩国城のごく一部しか例がない、天守閣の形でした。復元されることを期待したいと思います。

 

天守閣の古写真(南蛮造り)

最後に、藩主別邸で池泉回遊式の広大な庭園を持つ「栗林公園」には、杮葺きの数寄屋風の

掬月亭(きくづきてい)という大きな茶屋があります。しかし残念ながら、そこの写真を撮っていなかったのが心残りです。

 

高松へ行ったのが15年位前で写真もアナログです。大阪から青春18切符で、高松の他丸亀城、多度津陣屋を巡って1日旅で帰ってきました。あれから15年、機会があれば再度行きたいと思っています。