本日より、徳川将軍家の一族や、徳川家康の兄弟の家系の大名家などで松平姓を名乗った「御家門」のお城を、順次見ていきましょう。

 

まずは、「御三家」から出た家系で、筆頭御三家であった尾張徳川家からは、「高須松平家」が枝分かれしています。この家は、尾張藩二代藩主徳川光友の次男が、尾張藩宗家の世継ぎに万一のことがあればということで、1700年に創出されました。

 

そして案の定、その後に4度も尾張宗家へ、この高須藩から藩主を出す結果となっています。

 

また幕末には、優秀な「高須四兄弟」が各所で活躍してスポットが当たりました。

次男「慶勝」は尾張藩主になりましたが大政奉還のバックアップを行い藩内を新政府側に纏め上げました。五男「茂徳」は御三卿一橋家当主であり明治に入り徳川家の代表として新政府との交渉役に努めました。七男「容保」は会津若松藩主でありましたが京都守護職で佐幕に努め、最後には会津戦争で降伏し、九男「定敬」は桑名藩主でありましたが、戊辰戦争から函館戦争にも参加しました。

 

この「高須松平家」の居城は、関ケ原の戦い後の高須城に、徳永家、小笠原家が入城しましたが、一時天領となった後にこの「高須松平家」が御殿を中心にした「高須陣屋」を設けて、そこを拠点としました。

御殿風の海津市歴史民俗資料館(岐阜県海津市)

現在は、県立海津明誠高校付近が陣屋跡らしいですが、「城跡公園」の碑が立っている公園が本丸跡だといわれています。また、赤い色をした「主水(もんど)橋」の下に水路が流れていますが、ここは堀であったようです。この「主水橋」の名前は、家老稲葉主水の邸宅が橋のたもとにあった為にその名前がついたらしいです。

 

陣屋跡付近(現 岐阜県立海津明誠高等学校)

本丸跡(城跡公園碑)

主水橋下を流れる元堀だった水路

また、大江川が高校の敷地横を流れていますが、これも堀として使用されていたようです。川に向かって階段がありましたが、船着き場であったのでしょうか。

 

大江川ほとり

少し離れたところに、外観がすごく立派な御殿風の「海津市歴史民俗資料館」が建っています。その中には、御殿が再現された部屋もあり、当時の大名生活が偲ばれます。

 

御殿風の海津市歴史民俗資料館

海津市歴史民俗資料館内の再現御殿内居室

海津市歴史民俗資料館内の再現御殿内居室

陣屋級とはいえ5万石もあり、小さな城主格くらいはありました。尾張藩主の控えという位置づけの藩であったので、前述のような優秀な「四兄弟」がひしめき合っていたら、高須の小さな陣屋の中でジッとしておれなくなるのも良くわかりますねー

 

次は、御三家紀州藩の支藩であった「西条松平家」の居城である愛媛県の「西条陣屋」へ参ります。