ブログトラブルは、マイクロソフト関連らしく、昨日書いたブログは諦めました。再度、松岡城について書き起こそうと思いましたが、また後日にします。とりあえず昨晩に一部送った写真でご勘弁を!
ということで、御三家とその付家老居城のお城シリーズは、ひとまず終了します。それで、このシリーズ前に記載していましたが、御三卿の居城について触れたいと思います。
まず、御三卿とはなんぞや!
徳川幕府八代将軍吉宗は、幕府の中興の祖と言われるくらいに、力を持った将軍でした。家康から始まり、秀忠、家光の頃までは、徳川幕府の権力や財力も豊富にあったのですが、家綱、綱吉、家宣、家継と将軍は継承されてきましたが、綱吉の頃には元禄時代の現代でいうバブル時代で消費も鰻登りに、またご存知のように「生類憐みの令」で多大な経費増も重なり、幕府は火の車となりました。
また将軍は、執政に政治を任せて、酒井忠清、堀田正俊、柳沢吉保、新井白石、間部詮房などが台頭するようになり、将軍の飾り物化が進みました。特に、七代将軍家継は、わずか4歳で就任し8歳で逝去してしまい、将軍本家が絶えてしましました。
そこへ、紀州藩で財政改革を推進していた吉宗が、色々な経緯はあったものの八代将軍に推挙されるに至ったわけです。
その吉宗は、徳川幕府草創期の御三家を設けたように、自分の子供家重を九代将軍にしますが、万一の跡継ぎに備えて、家重の弟 宗武を田安家に、同 宗尹を一ツ橋家に、更には家重の息子の重好を清水家として万一の時の跡継ぎに備えました。こうして、その三家を「御三卿」と呼ぶようになりました。
ただし、御三卿の居住地は江戸城北の丸内にあり、知行地(領地とそれを収めるお城などの藩庁)は持たなかった代わりに、手当として賄料が1家につき10万石が支給されていたようで、取り立て家臣も僅かだったようです。
ですから、大名でもなく江戸城の中での生活で、一国一城の主にもなれず、能力のある者は悶々として過ごしていたのかもしれないですし、能力のない或いは政治や民衆を収めることに興味が無い者は、好きなことをして過ごせたかもしれませんねー
江戸城北の丸内には、それぞれ住まいである御殿は与えられていましたので、現在でもその入り口の門でしょうか、田安門、清水門が現存しています。また、一ツ橋門は、高速道路の下でひっそりと門の櫓台の石垣が残っています。
田安門の高麗門と櫓門
田安門の櫓門
清水門の高麗門
清水門の高麗門と櫓門
一ツ橋門の櫓台の一部
一ツ橋門の櫓台(高速道路の下に)
江戸城の廻りの外郭に「の」字状に櫓門と高麗門で構成された門構えが36ケ所置かれ見附と呼ばれていましたが、一ツ橋門もその内の一つです。
以下に、36見附の内、櫓台が比較的残っている見附の石垣を掲出しました。
雉橋門の櫓台の一部
常盤橋門の櫓台
日比谷門から西南に続く石垣と堀跡
赤坂門の櫓台
牛込門の櫓台
四谷門の櫓台
市ヶ谷門付近の石垣
今でも、櫓台が、東京都内の各所で見つけることができて、東京の中心部は日本最大城郭の江戸城にすっぽりとはまる城郭都市であったことがよくわかります。












