天下普請シリーズ、13日に大坂城前編を投稿しましたが、大学ゼミ同窓会の為に2日間お休みをしていました。本日は、大坂城中編に進みたいと思います。

 

前編で、現存している大坂城の城郭建築物の概要を記載しましたので、今日はその内容等について少し解説したいと思います。

 

徳川大坂城では、外郭から外堀を渡って内郭である二の丸や西の丸、土蔵曲輪、市正曲輪に入るルートが4箇所ありますが、この内現在建築物があるのが、大手門と青屋門で、あと2箇所は玉造門跡と城内で2番目に大きい肥後石と言われる巨石が正面に嵌め込まれている京橋門跡があります。

 

京橋多聞櫓跡と巨石(肥後石)

玉造口門跡

 

では、建築物のある大手門から入城していくことにします。大手門に向かってスロープを上がって行く左横には、凄く大きな櫓である千貫櫓

が睨みをきかしています。

 

この櫓は、織田信長軍が石山本願寺を攻めた時代からあったそうで、大きくて睨みをきかしているので、なかなか攻めあぐんでいたようでしたので、織田信長はこの櫓を落とした者へは、千貫の褒美を与えようとまで言わしめたことから、この櫓の名前がついた謂れがあるそうです。

千貫櫓(西の丸側から)

千貫櫓と大手門渡櫓門

 

ただ、当時は今のような形の櫓ではなかったと思います。

 

そして大手門は、大手口からスロープを上がりきった場所に立派な高麗門を構え、それをくぐると、正面の多聞櫓、左側の渡櫓門、土塀で枡形を形成しており、その大きさは現在では最大級の面積を誇ります。建築物は、いずれも

重要文化財であります。

 

大手門高麗門

大手門渡櫓門

大手門枡形を構成する多聞櫓(現存では最大)

 

渡櫓門を通り抜けて右に折れると、現在は西の丸庭園の入口があります。有料ですが、中に入ると広大な芝生の庭園があります。

 

天守閣から秋の西の丸跡

 

この場所は、現在ではイルミナージュ等のイベントや迎賓館での結婚式、茶室でのお茶会等様々な用途として使用されいますが、その中で、ひっそりと先ほど記載した千貫櫓、そして北東方向には乾櫓、焔硝蔵が、そのようなイベント参加者の目にあまり触れることなく建っています。

 

江戸時代の西の丸は、大坂城代の屋敷があった場所で、所謂幕府から派遣された大名が務めた大坂城代の役所であったようです。因みに、このポジションは幕府老中などへ昇格していくステップだったようです。

 

重要文化財の乾櫓は、特異な形をした折曲櫓で、西の丸側から見ると「L字型」ですが、外堀越しに見ると巨大櫓に見えます。外からは威圧的に見せる一方で、内側からは効率的な仕様になっています。

 

乾櫓(夏の陣後徳川幕府による築城最初の建築物)

乾櫓(L字型で折曲櫓又は重箱櫓)

乾櫓の北東居室(鍵部分)

 

焔硝蔵も重要文化財で、日本で唯一現存する暴発を回避するべく何重もの切石で囲われた火薬倉庫になっています。

 

焔硝蔵西側

焔硝蔵内部 天井・壁・床全て石造り

 

西の丸と京橋口定番屋敷跡から京橋門跡との境界には、復興の北仕切門がありますが、現在は通り抜けできませんので、一旦西の丸を出ないと二の丸から本丸方向へは行けないのです。

 

復興北仕切門

 

西の丸を出ますと、太皷櫓跡、南仕切り門跡を抜けて二の丸へ入ります。二の丸には、明治時代に紀州藩和歌山城の二の丸御殿の立派な書院が「紀州御殿」の名前で移築されていましたが、太平洋戦争で焼失してしまいました。すごく、勿体ないと思います。

 

太鼓櫓門石垣

 

二の丸の南側、外堀沿いには、東側にある玉造門脇にある一番櫓から、七番櫓までの7基の二重櫓が建ち並んでいました。しかし、この内現存しているには、一番櫓と六番櫓の二基だけとなっていて、いずれも現在重要文化財に指定されています。

 

一番櫓

六番櫓と五番・四番櫓の石垣跡

 

江戸時代この場所は、幕府直参で大坂城の警護・管理を担っていた大番衆の役所が並んでいた場所です。

 

そして玉造門跡の北側は、現在春には梅が咲き乱れる梅林ですが、江戸時代には小大名が任務に当たった定番屋敷が置かれた場所でした。この辺りを市正曲輪と言われ、定番屋敷の北側には加番屋敷が並んでいたようです。

 

今宵は、ここまでとしたいと思います。明日、大坂城後編を投稿したいと思います。

 

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