4月6日が「城の日」って、いつから言うのだろうかと、ふっと疑問に思い調べてみたところ、「1991年に、姫路市が当時日本三大名城の一つと言われた”姫路城”を中心とした(姫路)市の復興の為に制定した」とありました。
今から28年前、そーんなに昔からあったのですね。
さて、前回は、天下普請シリーズで「福井城」(福井県福井市)をお届けしました。
何故、この場所に天下普請の城が造られたか、「徳川家康」の次男であった「結城秀康」が関ケ原の戦いの褒賞でこの地に入ったことは前回のブログで記載しましたが、もう一つ重要な点がありました。
天下普請は、言い換えると「豊臣家」とその取巻きの「外様大名」を徹底的にマークするべく行われた築城でした。
つまり越前は、背後にある大大名で「豊臣秀吉」とは非常に通じていた「前田家」100万石(当時は、119万石でまだ、「富山」と「大聖寺」は未分割)が脅威として存在していました。そして、越後にも「高田城」を天下普請で築いて、「前田家」をサンドイッチにして監視することを目的にしたと思われます。
金沢城 復元橋爪続櫓と五十間長屋
富山城復興天守閣
高田城 復興三重櫓
前回のブログでは、「福井城」の立地している現在の状況をお話しました。
そして、現在県庁や県警本部や県議会場がある敷地には、大きな「本丸御殿」が横たわっていましたが、その「本丸御殿」の北側にあった「御小座敷」が1860年に、「大奥御座之間」が天保以降に、それぞれ「臨済宗 瑞源寺」へ移築されていて、現在でもお寺の本堂と書院で利用されています。
「福井城大奥御座之間」(瑞源寺書院へ天保期に移築)
「福井城大奥御座之間」(先の尖った釘隠し)
「福井城大奥御座之間」(漆塗りの障子戸)
「福井城本丸御殿御小座敷}がある瑞源寺本堂
「福井城本丸御殿御小座敷」の廊下部分(瑞源寺本堂廊下)
「福井城本丸御殿御小座敷」(床の間からの方向。瑞源寺本堂へ天保期に移築)
事前に予約をしておきますと、住職の方から丁寧に説明をしていただけ御殿の「上段の間」や「廊下」部分が本堂のどこになったかとか、書院の「釘隠し」や「漆塗の障子戸」のこだわりについても詳細な説明を受けて知ることができました。
瑞源寺の書院脇の「御成の間」の赤壁
最後になりましたが、幕末の「福井城藩主」で「松平慶永(春嶽-しゅんがく)」は名君といわれ、NHK大河ドラマ「西郷どん」で、「島津斉彬」「山内容堂」「徳川斉昭」とともに、「安政の大獄」では「井伊直弼」との対立から登城が禁じられたりしましたが、大政奉還後も徳川家存続に注力したようです。
次回は、前述した「前田家」の後ろからの監視役であった「高田城」をお届けしたいと思います。
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