昨日紹介した山形城の城主であった鳥居忠政の父親は、関ケ原の戦いの前哨戦で、「伏見城」をほんの僅かな軍勢で西軍と戦い、壮絶な最期を遂げたことで有名です。ここで、落城まで西軍の足を留めたことで、東軍に有利にもなったとのことです。
そして壮絶な戦いの末、落城の際には鳥居元忠を始め約200名が自刃しましたが、その際に付いた血糊の手形や足型が残る部材を、再利用したと伝わる寺院の天井が「お城の血天井」として現在五か所で見ることができます。
(正伝寺-京都市 北区西賀茂北鎮守菴町)
(源光庵-京都市北区鷹峯北鷹峯町)
(興聖寺本堂-宇治市宇治山田)
この伏見城は、豊臣秀吉が建てた二代目のお城で、初代の伏見城は指月の場所に秀吉によって建てられましたが、大地震によって倒壊したので、すぐに場所を木幡に替えて建てられたお城でした。
二代目が落城した後に、今度は、徳川家康の京都での拠点として三代目の伏見城が建てられました。そして、二代将軍秀忠、三代将軍家光は、このお城で将軍宣下を受けましたが、1623年には廃城になりました。
その後、伏見城にあった各種城郭建築物が、各所へ移築されて再利用されましたので、伝説のモノも含めて結構各所に伏見城の遺構として残っています。
伏見城については、私のホームページ「城をしろう・城はおもしろい」の「お城の建物こんな所で見つけた!」の中の「伏見城のモノがあちらこちらに」で詳しく紹介していますので、どうぞご覧ください。
明日も、伏見城について触れたいと思います。
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