反乱軍に体当たりする前に、敵を知る。その9の続きである。

 

「糖尿病はグルカゴンの反乱だった」の著者、稙田(わさだ)氏は、

かつてUnger教授の研究室に留学し、Unger教授に尊敬の念を抱いているようだ。

たしかに、インスリンばかりが注目を集める中、

グルカゴンが重要に違いないと一貫して研究を続けた結果、

最近になって成果が花開いたというのは研究者の鑑だろうと思う。

しかし、信奉しすぎると偏った見方になってしまう危険性がある。

 

あとがきには、象徴的なエピソードが紹介されていた。

 

ある糖尿病関係の講演席で、グルカゴンに関する質問が演者である有名大学教授に出された。すると、一言「グルカゴンはまだ測定法も確立していませんので」として、ほとんど無視した扱いに終わったのを、落胆とともに思い出す。これが我が国のつい最近までの現状だ。

 

そして、稙田氏は日本はグルカゴン研究の後進国だと嘆いている。

 

本当にそうだろうか?

日本はグルカゴン研究の後進国なのだろうか?

 

ここで、グルカゴンについてきちんと知っておくべきことがある。

わたしは糖尿病について真面目に勉強するまでは知らなかった。

というか、グルカゴンとGLP-1の関係を知ったことで、

これは面白い!とワクワクし

俄然、糖尿病に興味を持って調べるようになったのである。

 

もちろん、ひとつの遺伝子から

真逆の作用を示すものができる例は知っていた。

たとえば、Bcl-xだ。

Bcl-xLはアポトーシスに保護的に働き、

Bcl-xSはアポトーシスを促進する。

この場合は、Bcl-x遺伝子からmRNAが作られるときに

選択的スプライシングが起きることで

2種類のタンパク質が作られる。

プロセッシングによりいろんなホルモンが作られるというのが、

わたしにとっては新鮮だったのだ。

 

グルカゴン遺伝子からグルカゴンが作られるには、

まずはプレプログルカゴンという前駆体タンパク質が作られる。

そして、シグナルペプチドと呼ばれる頭の部分が削除され、

プログルカゴンという前駆体タンパク質となる。

 

その後、プロホルモンコンバターゼ(PC)という酵素によって切断され、

前駆体タンパク質からグルカゴンが切り出されるのだが。

 

それが実にややこしいのである。

プログルカゴンからは、これだけの種類のペプチドが切り出される。

膵臓のα細胞ではPC2による切断(プロセッシング)によって、

グリセンチン、GRPP、オキシントモジュリン、グリセンチン(1-61)、IP-1、

メジャープログルカゴンフラグメント(GLP-1, IP-2, GLP-2を含む大きな断片)、

そしてグルカゴンが作られる。

消化管のL細胞ではPC1によるプロセッシングによって、

グリセンチン、GRPP、オキシントモジュリン、GLP-1、IP-2、GLP-2、

これらのペプチドが作られる。

 

血中のグルカゴンを測定するために抗体が用いられるのだが、

グルカゴンペプチドの真ん中当たりを認識する抗体では

グリセンチンもオキシントモジュリンもグリセンチン(1-61)も認識してしまい、

純粋なグルカゴンを測定することはできない。

 

Unger教授はグルカゴンを測定するRIA法(Radioimmunoassay; 放射免疫測定)を

確立したのだが、

そこで使われた抗体はポリクローナル抗体だったようだ

つまり、グルカゴンのいろんな部位を認識する抗体のミックスだったのだが、

たまたまグルカゴンを強く特異的に認識する抗体が

多く含まれていたということだろう。

しかし、それでもやはりほかのペプチドもある程度は認識されてしまうし、

リンク先の情報によると、

このポリクローナル抗体が枯渇してしまい、

グルカゴン測定が困難になってきているということである。

 

日本ではグルカゴン測定キットとして売られているのは、

グルカゴンのC末(図の右側の端)を認識する抗体を使用しているようである。

しかし、この抗体でもグリセンチン(1-61)を認識してしまう。

 

稙田氏は、このグリセンチン(1-61)の存在をご存じないのだろうか。

「糖尿病はグルカゴンの反乱だった」にも

プログルカゴンのプロセッシングが図で示されているのだが、

グリセンチン(1-61)は示されていない。

したがって、グルカゴンのC末を認識する抗体ならば

グルカゴンを特異的に測定できるように思えてしまう。

だが、実際にはそうではないのだ。

 

そのため、グルカゴンを正確に測定できる手法を開発しようと、

群馬大学の北村教授らが研究をされている。

現在のところ、一番正確に測定できるのはLC-MS/MSという方法だ。

これは、液体クロマトグラフィーと質量分析装置を組み合わせたものだが、

かなり大がかりとなりコストも時間もかかってしまう。

 

そこで、現時点ではサンドイッチELISA

(Enzyme-Linked Immuno Sorbent Assay; 酵素結合免疫吸着検定法)

という方法が現実的だと考えられている。

これは、グルカゴンのN末(図中の左側の末端)を認識する抗体と

C末(図中の右側の末端)を認識する抗体2つを使用して、

グルカゴンを挟み込んで測定するというものである。

 

LC-MS/MS法とサンドイッチELISA法の長所と短所を上げると、

 

参考)グルカゴン測定系

 

サンドイッチ法も抗体を使用するため、どうしても交差反応が避けられない。

しかし、上のグラフにあるように、

従来の競合法RIAと比較すると、

かなり特異的にグルカゴンを認識することが確認された。

というか、従来の方法ではかなりのばらつきがあることに驚く。

 

これだけデータにばらつきが出るということは、

今までのグルカゴン論文の信頼性が問われるということである。

 

参考)グルカゴン測定法

 

タンパク質・脂質・炭水化物を含む食事を摂取すると、

健常人においてもグルカゴンは増加することが

LC-MS/MS法やサンドイッチ法では明らかとなった。

ところが、従来の競合法では逆に減少するというデータとなってしまうのである。

 

これらのことから、日本人研究者は

グルカゴンについては慎重な解釈が必要だと考えており、

過去のグルカゴンのデータについては

少なくともサンドイッチ法で再評価されるべきであると主張をしている。

研究者の姿勢として、これは非常に正しいとわたしは思う。

しかし、稙田氏にしてみたら、

日本はグルカゴン研究の後進国だ、ということになってしまうのである。

Unger教授の研究に疑いの目が向けられるのはいい気分ではないかもしれないが、

しっかり確認をし、信頼できるデータであると保証された方が、

これからのグルカゴン研究には必要なことであると思う。

 

わたしとしては、ぜひ北村教授や林教授らのグループが

正確な測定法を用いてグルカゴン研究を牽引し、

世界をリードするような結果を出してほしいと思う。

グルカゴンはUnger教授だけのものじゃない。

がんばれ、ニッポン!